有漢常山城 岡山県高梁市有漢町有漢土居

標高260m 比髙60m 

主な遺構:土塁・井戸・堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 有漢町中心街から東へ、有漢川沿いの県道49号を進む。うかん常山公園の指示板のある交差点を右折して常山公園に向かう。園内には模擬天守があり、その奥に城跡がある。有漢IC側からは入れないから要注意。

      

 有漢常山城を訪ねるとき嫌な予感がしていた。城跡一帯は常山公園となっていて、模擬天守(城型展望館「風と化石の館」)が築かれているから、破壊が進んでいるに違いない。

 ところがそれは嬉しい誤解だった。模擬天守脇に常山城の案内板があり、そこを抜けると三条の堀切、その奥には立ちはだかるような城壁がそびえており、公園建設による破壊は免れていた。意外にも破壊されていたのは城の北側斜面であって、北麓を通る県道の改修工事によるものだった。

模擬天守(城型展望館「風と化石の館」) 常山城はこの背後にある。

 城は有漢川に向けて延びた尾根の先端に築かれている。城の背後に当たる南側は三重堀切で厳重に遮断。この堀底からの登城路が2郭西斜面を上ってくるから、堀切と通路を見下ろす位置にある2郭が防御の要となる。

 背後の三重堀切に隣接して西側斜面には8基からなる畝状竪堀群が残る(図中a)。これを見下ろす1・2・3郭の西辺には土塁を盛り、切岸下には横堀が入る。

 この横堀はさらに北西尾根に延ばされて竪堀となり、これに並べ築かれた竪堀と共に畝状竪堀群(b)をなす。ここでは尾根を遮断する堀切に替えて竪堀が築かれている。

 尾根筋に竪堀を築く場合、竪堀は基本的に最大傾斜の方向に延びるから、下図鍛冶山城(岡山市北区大井)のように放射状を呈するものが多い。尾根の形による影響もあるだろうが、当城のように整然と並べ築かれているものはごくわずかだ。

鍛治山城の畝状竪堀群

 このように、西側斜面に強固な防御施設が敷かれる一方、城の東側、現在有漢ICに向かうランプのある東側谷筋には4段に構えた腰曲輪があるのだが、その下方に広がる緩斜面は放置されている。従ってこの城の防御正面は有漢川に面した北側、及び西側の浅い谷筋ということになる。

 常山城のあるじは新山玄蕃と伝える。軍記「中国兵乱記」によると、新山玄蕃は天正2~3(1572−3)年の備中兵乱で三村方に属して国吉城に籠城するが、毛利軍の攻勢を受けて三村氏の本拠備中松山城に逃れ、松山城の馬酔木丸を守備したという。

 三村氏滅亡ののち、新山玄蕃は毛利氏に従って行動していたようで、備前美作国境にある都我布呂城でも新山玄蕃の名が出てくる。この城は毛利の備前・美作侵攻の拠点として天正8年(1580に築かれた城だから、毛利家臣と共に守備していたのかもしれない。

 都我布呂城に関する記事はこちら。

kohanatoharu.hatenablog.com

手前が2郭、奥は1郭。

2郭から三重堀切を見下ろす

参考文献

 『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年

 賀陽町教育委員会『賀陽町史』  1972年

 平川親忠「古戦場備中府志」(『備後叢書』5巻 東洋書院 1990年)