梨迫城 広島県神石郡神石高原町上

標高560m、比髙40m  

主な遺構:堀切・土塁

アクセス

 神石高原町役場のある小畠から県道27号を西に進み、光信寺を目指す。梨迫城は寺の北東側山頂にある。寺の裏手から山に入る。

    

  

 しっかりとした切岸がみられるのは外郭線の一部だけで、曲輪は整地不十分で不明瞭なものだ。その一方、2郭を囲む帯曲輪は一部土塁囲みとなる。整地不十分なまま放置されているということは、この城が継続的に使用された城ではなく、急遽築城され、やがて放棄されたことを示しているように思える。

 梨迫城から東に伸びる低丘陵先端には有井城があって、馬屋原氏の本拠とされる。遺構は方形郭(短辺30m・長辺45m)の背後を土塁・堀切で遮断しているから、居館跡とみることができる(下図参照)。

      

 城主馬屋原氏には二つの系統があって、有井城から小畠の九鬼山城に本拠を移した馬屋原氏と、固屋城を本拠とした馬屋原氏があって、天文年間後半には両者ともに毛利氏に従って各地の戦いに参加している。 

「西備名区」によると、九鬼城に移ったのは馬屋原正国の代とされ、有井城にはその弟元政が住んだ。元政が石見国に移ると、正国の次男宗正がその跡を継いだというが、梨迫城についての記載はない。一方『神石郡誌』ではこの宗正が隠居したのち梨迫城に住んだとする。とすれば梨迫城は詰城だったのか。

 

有井城南方の低丘陵にも臨時的な築城とみられる向城がある。

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参考文献

「西備名区」 『備後叢書』 東洋書院 1990年

『神石郡誌』 名著出版 1980年

三和町誌編纂委員会『三和町誌』 平成6年

 

 

鈴神山城  広島県庄原市門田町

別名 小平山城

標高337m 比高110m

主な遺構 土塁・石垣・櫓台・堀切

アクセス

 三次から庄原方面に向けて国道183号を進むと、道の左手に備北ななつか病院がある。病院前の交差点を左折し北上。西城川を渡って右折し県道62号に入る。500mほど進んで、左手に見上げる山に鈴神山城がある。登り口は南麓の八幡神社脇にある。

   

 

 城は西城川の川筋を見下ろす急峻な山に築かれている。城の西斜面側で行われた土石採取により遺構の一部が失われたが、城の背後を遮断する七重堀切と、これを見下ろす位置にある2郭は完存する。

 南麓神社脇からの登城路は、城の背後に刻まれた堀切群の下方斜面を横切り、急斜面のジグザグ道を登って2郭土塁脇に入る。2郭は安芸・備後の山城には数少ない土塁囲みの曲輪であり、堀切面に備えた櫓台は堀底との間で高さ12mに及ぶ急崖となる。虎口の構えは素朴であるものの、背後への厳重な構えが特徴的な城だ。

 昭和52年の発掘調査で、城跡からは野鍛冶の痕跡や投石用と見られる集石、備前焼の甕類、土師質土器等が出土している。

               

 西城川の川沿いには、山内氏の本拠甲山城の背後を固める城が点々とある。その一つがこの鈴神山城で、『芸藩通志』には「大永年間、門田宮内所居、一説には石原氏通所居といふ」とある。同書の「故家」欄では「殿垣内村石原氏 先祖石原吉兵衛観氏は甲山故城主首藤の族なり」と記しており、石原氏は山内氏一族とされる。

 鈴神山城南麓の西城川沿いには「姫呑原(ひのめのはら)」の地名がある。この地は天文5年(1536)、備北に進攻した尼子軍と山内隆通軍の間で合戦が行われた所と伝え、西城川南岸の丘陵中には尼子方陣跡もあるから、鈴神山城も戦いの舞台となったに違いない。

この戦いに関して「近郷古事漫筆」は次のように記している。

「永禄年中(天文の誤りか)尼子国久市村鳥着山に在陣、山内隆通と合戦の時、比之女原の合戦をなし、(石原)氏豊軍功あり」

 

「鳥着山」についてはこちら。

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2郭。土塁脇に虎口が開く。

手前が2郭、奥は1郭

参考文献

「近郷古事漫筆」 庄原市史編纂委員会『庄原市史』1980年 

『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

日本城郭大系』13広島・岡山 新人物往来社1980年