的場山城   広島県三次市三良坂町皆瀬 

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 的場城について、江戸期の地誌『芸藩通志』は城主を加賀井越後守と伝える。南天山城に拠った和智氏の家臣とされる。

 城は蛇行して流れる上下川を見下ろすなだらかな丘陵上にある。上下川に面した北斜面は比高70mの急崖をなすのだが、南の丘陵側から城に向かえば緩やかな下りとなり、やがて城の背後を遮る土塁がちょうど堤防のように見えてくる。

 城が丘陵上に築かれるのは攻め上る敵兵を上方から迎え撃つ有利さがあるからだが、この城は南側から見る限り平地の城館と同じ。山裾に斬り込んで造成した土豪の居館が三方を土塁で囲み、背後の丘陵との間を空堀で遮断するという構造と瓜二つだ本城は平地の館を防御上有利な丘陵上にしつらえた館城と言えそうだ。

 主郭は長辺40m短辺20mほどの規模で、北側には加工不十分な削平地が付属するが、単郭の城と見て良さそうだ。背後を守る空堀は幅7m、空堀の深さは主郭背後の土塁との間で3m。土塁は主郭側から見ても3mの高さだから主郭は背後の丘陵面より低いことになる。主郭の土塁脇に見られる土壇は背後を監視する櫓台なのかもしれない。

 主郭背後を守る空堀は直角に折れて東辺切岸下に延びたのち、再び直角に折れて斜面を下る竪堀となる。塁線には明瞭な折が2カ所入って背後の空堀から東斜面側にかけて横矢が掛かる。西辺では主郭を囲む空堀は一部不明瞭となるが、切岸下には4基の竪堀がやや乱雑に刻まれて西方に広がる緩斜面を潰している。

 本城から北東の方角1kmには、和智氏一族の田利氏が居城したという赤城山城が望見でき、赤城の北東には和智氏家臣が居城したという友永城がある。どの城も上下川の川筋を見渡す急崖上に築かれた城だから、川筋を監視する役割を持っていたのかもしれない。

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的場城全景。丘陵の麓には上下川が流れる。

 

参考文献

 吉舎町史編纂委員会『吉舎町史』 1991年 

 灰塚ダム湖とその周辺の生活編集委員会編 『灰塚ダム湖とその周辺の生活』1998年

寺家城 広島県東広島市西条町寺家

別称 寺家館・寺家土居屋敷

標高242m 比髙15m

主な遺構:土塁・横堀 

アクセス

 東広島市の国道2号西条バイパスを福山方面に向けて東へ進む。八本松トンネルを抜けて約2km、バイパス北側を走る側道脇に「寺家城跡」の小さな看板が設置されている。看板の前を過ぎ、バイパスを下りると前谷交差点がある。ここから引き返すのだが、2号線北側の側道は東向き一方通行だからいったん南側の側道を経由することになる。

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 寺家城は西条盆地の西寄り、低丘陵と谷間の水田が入り交じる中にある。規模は南北72m東西48m。四方土塁囲みの方形居館跡である。

 土塁は背後の丘陵に面した北辺が最も高く約2m、土塁外壁面は4m余りの高さを有する。西辺を除き、土塁外壁下には空堀が巡る。南辺中央にある土塁切れ目が虎口で、いわゆる平入り虎口。北東隅にも入口があるが後世の作業道のようだ。

 東広島市寺家地区には本城以外にさらに6カ所の居館跡が存在し、「あたかも小字名ごとに分布するような密な状態」(『ひがしひろしま郷土史研究会ニュース』82)にある。このうち丘の上に構えた居館跡は寺家城が唯一のものであり、そのほかの居館跡は丘陵裾や水田に囲まれた微高地に立地しており、比髙は5mに満たない

 寺家城の主は阿曽沼氏家臣の原田氏と伝える。大永3年(1523)段階で寺家村は300貫の在所でそのうち35貫が阿曽沼氏の知行地、それ以外は「諸給人知行」(平賀家文書)であって、『寺家城遺跡・近信遺跡』はこの地域に大きな国人領主は存在しなかったことが、寺家城など中小規模の城館跡が散在することと対応していると推定している。

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寺家城全景。左は国道2号西条バイパス

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寺家城全景。西側から撮影

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西辺の土塁

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参考文献

 松村昌彦「市内の中世遺跡」『ひがしひろしま郷土史研究会ニュース』82 1982年

 広島県埋蔵文化財調査センター『寺家城遺跡・近信遺跡』1993年 

 飯田米秋『賀茂郡史』中世武士編  東広島ジャーナル 1984年 

高梨城 島根県邑智郡美郷町都賀行高梨

標高178m 比髙110m

主な遺構:堀切・畝状竪堀群

アクセス

 美郷町役場のある粕淵から国道375号を南へ。やがて江の川沿いの道となり、都賀行の指示板が現れる。これを通り過ぎて約1km、右手に現れる橋が高梨大橋だ。高梨城は江の川の対岸、送電線の鉄塔が見える山にある。東麓の民家脇に登り口がある。

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 高梨城は江の川の川岸から立ち上がる急峻な山に築かれている。独立標高点のある丘頂の1郭が主郭らしく、ここからうねりながら南西に伸びる尾根上に曲輪が連なる。険しいやせ尾根に築かれた曲輪は細長く歪んだ形であり、急峻な地形が影響してか、尾根筋をはずれた山腹に曲輪は築かれていないし、登城路や曲輪相互間を結ぶ通路も不明瞭だ。

 本城の注目点は何といっても堀切・竪堀群による堅い防御の構えである。標高178mの丘頂を占める主郭(1)の周囲で見ると、東尾根では尾根を挟んで八の字型に竪堀を下ろし(a)、尾根伝いに攻め上る敵兵の動きを制限している。西尾根のbも同様。北斜面cの部分では長短・広狭のばらつきはあるのだが、尾根を無視して竪堀を並べ築いた放射型の竪堀群となる。 

 背後に続く丘陵を見下す3・4郭の周囲では堀切と竪堀群を複雑に組み合わせて尾根筋に備えている。その中で図中d・eは隣り合う堀切の先端が合流する形だから、槙尾城(2021年10月13日付ブログ)で取り上げたように、邑智郡南部に勢力圏を有した高橋氏の城に特徴的な形態だが、下に記すように高橋氏との関連は薄そうだ。

 

 弘治元年(1555)、毛利元就厳島戦で陶晴賢の率いる大内軍を破ったのち、周防に進攻する。これと並行し、尼子氏の攻勢に備えて石見にも兵を進めていた。翌2年(1556)の3月、元就は吉川元春宍戸隆家・志道通良石見国東部江の川沿いの地に派遣しており、同年5月には石見銀山への通路で尼子方との戦いが発生している(熊谷家文書、新裁軍記)。

 江の川沿いの都賀行には高梨城のほかに、川に面した低丘陵に載る水玉山城(案内図参照)があって、いずれの城も川本の温湯城(邑智郡川本町を本拠とする小笠原氏が築いたものという。この頃小笠原氏は尼子方に属しており、この両城に残る落城の伝説は毛利軍との戦いによるものかもしれない。 

 毛利隆元は同年12月、岡宗左衛門光良に「都賀行」の城番を命じているが(閥閲録巻95)、都賀行の城とは水玉山城・高梨城のいずれだろうか。『大和村誌』は水玉山城とするが、岡が在番したのは尼子方との戦いに備えた最前線の城だから、竪堀群で厳重に防御を固めた高梨城のように思える。あるいはこの両城を守備した可能性も考えられる。

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高梨城全景(北側から撮影)

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高梨城は江の川に面した急峻な山に築かれている。手前は高梨大橋

参考文献

  島根県教育委員会 『島根県中近世城館跡分布調査報告書』  

                       第1集 石見の城館跡  1997年

  広島県広島県史』中世  1984年 

  『日本城郭大系』13広島・岡山 新人物往来社 1980年

  大和村誌編纂委員会『大和村誌』 1981年 

小丸山城  広島県庄原市東城町帝釈未渡

 

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 由来のまるでわからない城を紹介する。場所は五輪塔の石材として使われていた結晶質石灰岩、いわゆる「小米こごめ石」の産地として知られた帝釈未渡。帝釈峡の入り口永明寺にほど近い場所だ。

 地元では「城山」と呼ばれる。江戸末期の国郡志書出帳(未渡村)に「小き丸山有之、城山と唱候得共、城主年暦など相知不申」とある。確かに未渡集落からはお椀を伏せたような形に見える。城名は記載されるように山の姿に由来するのかもしれない。 

 小丸山城は未渡集落の西方、未渡川の谷を見下ろす標高557mの丘に築かれている。城のある未渡は標高500m前後の高原上に広がる集落だから、比髙は80mに過ぎない。

 上の縄張図を見ればしっかりした遺構を持つ城のように見えるが、曲輪の削平状態が悪いだけでなく切岸の造成も不十分だから、現地をぼんやり歩いていたら見過ごしてしまいそうな不明瞭な遺構だ。丘頂の主郭は10m四方ほどの曲輪だが、よく見ると古墳の墳丘を破壊して造成された曲輪で、一部が崩れて薄暗い石室がぽっかりと口を開けている。ここから南西および南東に延びる尾根筋にそれぞれ階段状に曲輪を設けていて、その両側面に延びる帯曲輪が各曲輪を結ぶ通路を兼ねる。

 城の背後に当たる主郭北側の堀切面をはじめとして土塁は皆無であり、曲輪の普請も不十分だ。要するに安普請の城ということなのだが、一方で、尾根を遮断する堀切とこれを延長した竪堀は非常によく発達している。主郭背後には二重堀切を刻み、b・c・dのような山腹のわずかな膨らみに過ぎない部分にも堀切を設けるなど、発生する尾根を根こそぎ遮断するという徹底ぶりだ。このような特徴から継続的に使用された城ではなく、臨時的な軍事拠点としての城のように思える。

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南側から主郭を見上げる。

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主郭脇にのぞく古墳の石室

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東南尾根の曲輪

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参考文献

 東城町史編纂委員会 『東城町史』自然環境・考古・民俗資料編  1996年

 広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

十力城 岡山県加賀郡吉備中央町高谷 

標高340m 比髙170m  

主な遺構:土塁・堀切・竪堀

アクセス

 加茂市場の総社宮前から南東へ、吉備高原上の高谷を目指す。坂道を上りきったところから東に進めば長丸集落に入る。城址は長丸集落から東へ延びる尾根上にある。

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 『全国遺跡地図』岡山県で十力城の位置を長丸集落の北標高401mの山頂とするが、ここに遺構は確認出来ない。この山頂から東に派生する尾根が約500mにわたって水平に伸びており、その中ほどにあるわずかな高まりに十力城が築かれている。

 尾根の北斜面は宍甘川に落ち込む絶壁で高さは170mに達する。また南側にも深く切れ込んだ谷が入っているから、長丸集落から眺める城跡は集落と同高度に伸びる緩やかな尾根にあるのだが、思いのほか厳しい要害となっている。従って城への通路は長丸集落からの尾根伝いのルートだけだ。この尾根の付け根は「城の峠じょうのたお」と呼ばれ、城内には武士の守り神として信仰を集めた摩利支天の小祠が鎮座する。

 城の規模は東西80mほど。西端に1条の堀切を刻んで大きく南北両斜面に伸ばし、この内側に隣接して両斜面それぞれ各1条の竪堀を設けて尾根基部側への備えとしている。一方、尾根端側に堀切は無く、3mほどの高さの切岸があるだけだ。さらに尾根先端にかけてさらに平坦な尾根が200mほど延びるが、未加工のまま放置されている。

 城の東寄りにある小振りな1郭が主郭。西端の2郭はわずかな段差で3区画に分かれるが、全体として40×20mの規模。西側堀切面には土塁、南面に虎口を開く。2郭から東端の小郭まで幅2m前後の通路が延び、これから主郭への登り口がある。

 

 江戸期の地誌『東備郡村志』では、江戸期この地にあった大谷村に二つの城があるという。元兼にあるのは伊賀兵庫の城とするからこれが福山城。もう一つの城は所在地がはっきりしなかったようで、中村にあるのは伊賀伊勢守の城、一説に伊勢守の城は十力にあってその家臣が居城したとする。

 いずれにしても虎倉城を本拠とした伊賀氏の一族や家臣が守備した城らしく、本城の西方1kmにある福山城と共に北麓を流れる宍甘川の川筋を監視する役割をもっていたものと思われる。

 

参考文献

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』岡山県  1985年

 加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

日山城 広島県山県郡北広島町新庄

別名:日野山城・火野山城

主な遺構 石垣・石塁・土塁

標高705m 比髙290m

アクセス

 北広島町の中心街有田から新庄へ向け、国道261号を北へ5kmほど進むと中山峠がある。峠を越えるとすぐ道の左手に日野山城の案内板がある。ここを左折して上っていくと駐車場がある。ここから山頂まで約40分の道のりだ。

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日山城縄張図(登り口の案内板を撮影)

 日山城は毛利元就の次男元春が吉川氏の家督を相続し、天文19年(1550)入城して以降、広家が天正19年(1591)出雲国富田城に移るまでの間、吉川氏の本拠城だった。城は元春の相続以前から存在していたが、大規模な修築は元春以降のことであり、永禄10年(1567)頃一応の竣工をみたようだ。

 城の規模は東西640m南北450m。戦国大名の本拠にふさわしい堂々とした戦国期山城だ。城の麓には吉川元春館跡などの遺跡があり、火野山山中には山頂の曲輪群・中城地区の曲輪群・南方の谷間にある浄必寺曲輪群などが残る。

 久しぶりに城を訪れてみると所々に案内板が設置され、訪問者のための駐車場が整備されていた。東麓の登城口に位置する中山は日山城下の市町で、様々な業種の商店や職人が店を構えていたという。

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中山

 「竪小路」と呼ばれる中山からの登城路は、やがて沢沿いの踏み跡程度の道に変わる。下写真のように切れこんだ谷間に道が伸びているから、増水時は歩けなくなりそうだ。

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沢沿いの登城道

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日山城縄張図(部分)

 登城路は中城を経由して、城の中核部入口に当たる大門の原(縄張図10)に入る。急坂を登った所の大門の原は、その名のように大きな門を構えた大手口だったようだ。大門の原の脇にある姫路丸(縄張図11)は急坂の登城路を真上から見下す位置を占めており、虎口防御の要となっている。

 大門の原北側の浅い谷間に「一升水」(縄張図カ)の名が残る。その由来は「平常一升汲めばまた一升溜まりて絶ゆることなしとの目出度き名なり」という。また城の西方、船峠から用水一荷を城に担ぎ上げれば一匁の報奨金が与えられたことから、ここに「一匁水」の名が残るという(『広島県山県郡史の研究』)。

 城内には明瞭な井戸跡が確認されていないから、これらの伝承は城内で水不足による苦労があったことを暗示しているように思える。

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大門の原。右手に姫路丸、奥は中ノ丸方面

 大門の原からさらに進んで行くと大広間の段(池の段、縄張図14)に入る。ここは左は二ノ丸(縄張図12)、右を中ノ丸(縄張図19)曲輪群に挟まれた谷間に位置しており、正面は中ノ丸と二の丸を結ぶ通路を兼ねた巨大な土塁がふさぐ。

 二ノ丸(縄張図12)は大手口である大門の原から大広間の段に至るルートを見下ろし、南側には向中城(縄張図2)や中城地区を俯瞰するから、姫路丸と共に大手道防御の要衝をなす。曲輪の延長は100mほど。曲輪の削平はやや甘く、東に向けて緩やかに傾斜する。

 大広間の段から北側に見上げる中ノ丸曲輪群は曲輪の形が矩形に整えられ、石垣が多用されるなど、本城内では最も丁寧に普請されたところ。道はここから最後の関門となる小郭群を経由して本丸に入る。

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大広間の段(池の段)。奥に二ノ丸と中ノ丸を結ぶ土塁が見える

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17郭の石垣

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本丸

 本丸は小さな段差で4区画に分かれる。私が初めて城を訪れたのは50年ほど前。その頃本丸一帯は雑木林が広がって、ひっそりとした雰囲気が心地よかったのだが、立木が伐採されてしまった。山頂からの眺望を良くするためなのか、また史跡指定との関係があったのだろうか。残念なことに今はカヤやイバラの密生した荒れ地となっている。

 継続的に下草刈りできる目途があるなら別だが、私は基本的に伐採に反対。せめて皆伐は避けるべきだ。日差しの強い時期には日陰もつくってくれるし、下草の繁茂も押さえられるはずだ。

 本丸から南北に伸びる2つの尾根上にも曲輪群が配置されるが、曲輪の先に堀切や竪堀は確認出来ない。それどころか、本城では竪堀・横堀・堀切といった空堀が全く築かれていないのは驚きだ。安芸国北西部の吉川領内でみても、堀切や横堀はあるが畝状竪堀群のような発達した竪堀群は見られない。吉川氏の築城手法の特徴なのだろうか。

 

参考文献

 吉川氏城館跡保存管理三町連絡協議会 『史跡吉川氏城館跡』 1990年

 名田富太郎 『広島県山県郡史の研究』1952年

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書」第1集 1993年

福山城 岡山県加賀郡吉備中央町加茂市場

標高366m 比髙160m     

主な遺構:土塁・石積み・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 加茂市場の総社宮から東方に見上げる山が福山城だ。総社宮から南東へ進み福山城背後の高原を目指す。登り切ったところの分岐を左折し木ノ実集落に向かう。木ノ実から再度左へ。未舗装だが軽トラックなら何とか進入できる道が城跡までつけられている。城跡は城山公園として整備されている。 

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 福山城は文亀2年(1502)松田氏の家臣高見源右衛門が築城し、天正の頃城主は伊賀兵庫と伝えられる(加茂川の山城)。

 城は加茂総社宮のある加茂市場を見下ろす丘陵上にある。西麓の加茂市場は備中高梁から竹庄へをへて宇甘川沿いに下り金川に至る東西の道と、伯耆大山に向かう大山道が交差する交通の要地であった。これに加え、備中との国境に前にした城だから、伊賀氏にとって本拠地虎倉城に次ぐ重要な拠点城郭であったものと思われる。

 天正7年(1579)、毛利と同盟を結んでいた宇喜多氏の織田方帰属が明らかになり、毛利軍は美作・備前への攻勢を強める。この年12月には毛利・吉川・小早川の大軍が備中中部に終結。翌8年に入ると毛利軍は美作大寺畑城の攻撃に取りかかると共に、備前加茂に進出。宇喜多方に属する伊賀氏の攻撃を始める。

 毛利の攻撃を受けて伊賀氏は一族の守る福山城を開けて退却したことから、毛利輝元はこれを改修して新たな拠点とすることを決定し、赤川元秀や桂源右衞門尉に在番を命じている(桂及圓覚書・閥閲録巻32)。天正8年4月13日、輝元の近習からなる攻撃軍が虎倉城攻撃に向かうのだが、伊賀軍の襲撃を受けて大将の粟屋元信が討ち死にするなど大敗北を喫して潰走する。

 その後毛利は福山城を棄て、加茂市場の北方に新たな拠点として勝山城を築く。「福山は敵の方より差出たる山にて、しかも此方より渡りむつかしき小川候」(桂岌園覚書)、つまり福山城を放棄したのは伊賀方の勢力圏である宇甘川の対岸にある山だからという。しかし毛利方にとっては敵勢力圏に確保した橋頭堡であったはずだ。放棄したのは敗戦後の不利な軍事情勢の中で城を維持出来なかったためと思われる。

 

 城の規模は長辺300m短辺240m。伊賀領内では虎倉城に匹敵する規模を持つ。城内は公園として整備されており、遊歩道が主郭(1郭)まで伸ばされて、遺構の一部が破壊されている。

 初めてこの城を訪れたときは東側からの車道を利用したのだが、終点の駐車場(2郭)が既に城内であることに気づき、意外な気持ちになったものだ。2郭に至る道沿いには土塁・空堀といった防御施設が見えなかったからだ。

 2郭東側には主郭とほぼ同高度の丘があり、ここに3郭をはじめ数ヶ所の不明瞭な小削平地及び二重堀切が築かれて、背後の備えとなっていたのだが、城の西側斜面に比べればごく貧弱なものに止まる。背後の高原に繋がる尾根を手薄なまま放置したのは、高原側が伊賀氏の勢力圏だったからなのだろうか。

 主郭の周囲に発生する3本の支尾根にはいずれも階段状に曲輪が配置される。南に伸びる二本の尾根のうち、東側の尾根では5郭に石積みが残り、その下方には畝状竪堀群Aが築かれている。この竪堀群は尾根筋を遮断する堀切に替わるもので、放射型の竪堀群となる。

 この二つの尾根に挟まれた畝状竪堀群Bは谷間に築かれた形となっている。その思いがけない位置に驚くが、4郭の載る尾根の基部を遮断する堀切に注目すれば、堀切に隣接する竪堀群といえる。北西尾根のCも同じく堀切隣接型のものだ。

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福山城全景(加茂市場側から撮影)

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2郭

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2郭東端の石垣

参考文献

  加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 

丸山城 岡山県賀陽郡吉備中央町吉川古茂田 

標高350m 比髙5m 

主な遺構:堀切・土塁 

アクセス

 吉備少年自然の家入り口交差点から西へ1kmほど進むと十字路が現れる。右折して県道307号へ入る。県道を北へ1kmほど進んだあたり、道路脇に丸山城の案内板がある。ここを左に上っていくと空堀に囲まれた城跡が現れる。

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 丸山城は虎倉合戦(「加茂崩れ」とも)の舞台となった清常城(2021年11月3日付ブログ)から西へ5kmほどの地点にある。上の地図でみれば城の周囲は一面の水田で平坦地のようだが、東西に延びる低丘陵があって、浅い堀を巡らした城がその上にちょこんと乗っかっている。

 城は周囲を囲む水田からの高さが5m、丘頂の曲輪は地形に制約されて歪んだ楕円形をなす。その規模は長径50m、短径40mほど。南面に登城路があり、西側の堀切面から北辺にかけて高さ1~2mの土塁が残る。曲輪は耕地として利用されていたから後世の改変を受けているかもしれない。

 西に延びる丘陵を遮断する堀は幅15mほど。堀底も水田となっている。東側は浅い谷になっているが、東堀・西堀の地名を残すから、東側にも堀が巡っていたのかもしれない。城の北は高さ10mを越える急斜面となって、山裾を洗う小川に落ちこんでいる。付近には領主の手作田であるツク田(佃)・馬場があったと伝えるから、この城は日常生活が営まれた居館と見られる。 

 『賀陽町史』によれば天文・永禄の頃、虎倉城主の弟伊賀出雲守久治が居城。出雲守が田土の大原城に移った後、その子刑部が吉川姓を名乗ってこの城に止まり、吉川新右衞門とつづいて居城したという。

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丸山城(南側から撮影)

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西側の堀

参考文献

 賀陽町教育委員会『賀陽町史』  1972年


勝山城 岡山県加賀郡吉備中央町下土井 

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 天正8年(1580)4月、毛利軍は伊賀久隆の本拠である虎倉城を攻撃するが、伊賀軍の逆襲によって有力部将が討死するなど大敗を喫してしまう(いわゆる「加茂崩れ」)。その後虎倉城攻めの拠点の一つとしていた福山城を放棄し、同年5月加茂市場から伯耆大山に向かう大山道を見下ろす丘陵に新たな要害を築いた。これが勝山城である。毛利輝元は譜代の家臣桂源右衛門尉・赤川次郎左衛門尉・岡惣左衛門に在番を命じ、これにもと備中三村氏に従っていた竹野井惣左衛門尉が現地案内人として添えられていた(桂笈圓覚書)。「桂岌圓覚書」は勝山城に在番した桂源右衛門尉が晩年書き留めたもので、これによれば新たに勝山城を普請した事情を「福山は敵の方へ差出たる山にて、しかも此方より渡りむつかしき小川」があるためとしている。

 この年7月には在番していた竹野井氏の下人が伊賀方に情報を漏らしたことが判明。問いただした上で討ち果したとの報告を受けた輝元は、一層「通路差切」に努めるよう指示している(閥閲録95)。勝山城在番衆の役割は伊賀方に対する情報・調略活動であり、敵の輸送路を遮断する通路差切といった軍事行動も含まれていた。こうした活動には現地の事情に詳しい竹野井氏のような「方角衆」は欠かせない存在ではあったが、地縁的・血縁的なつながりから常に敵方に通じる危険をはらんでいたようだ。

 翌9年4月頃伊賀久隆が急死したのち、その子家久は毛利氏に服属。その結果勝山城の重要性は低下し、勝山城に在番した岡惣左衛門は宇喜多氏と間で新たに緊張の高まる「忍山相城」(注1)へ派遣されている(閥閲録巻95)。勝山城の普請はその時点でも続けられていたようで、8月下旬には伊賀氏に普請を依頼している。

 

 勝山城の位置について、『全国遺跡地図』岡山県では勝山城の場所を舟山城とし、南方500mにある小丘を勝山城としているのは、何らかの混乱があったものと思われる。『加茂川の山城』は舟山城については不明とし、勝山城の位置を「下土井から細田に向かう道の左上」「細田から延びた尾根の上で、北側は上井原の谷」と明確に記している(案内図参照)。

 城の比髙はわずかに50m。低くなだらかな丘陵に築かれている。長円形の主郭は長径70m、短径28mとかなり大振りで、その廻りには北西斜面を除き幅10m~3mの腰曲輪が取り巻く。腰曲輪はいくつかの小区画に分かれており、城の南面から西面の数カ所に折を設けて城壁面に横矢を掛けている。さらに北西斜面を除く城の全周には畝状空堀群がびっしりと築かれている。竪堀の数は合計40基、岡山県下有数のものだ。特に主郭南西側にある畝状竪堀群は上端に帯曲輪(一部に土塁が見られるから横堀だろうか)を備えているから、ここは攻め上る敵を迎撃する防御拠点となったはずだ。

 城は加茂市場を方面を見通す南西斜面を中心に軍事的要素の高い普請を施す一方、城の北西側は緩斜面をそのまま放置している。尾根続きとなって細田方面に繋がる北東側でも堀切1基と隣接する竪堀数基が確認できるだけで、堀切面の腰曲輪には土塁も認められないから、加茂市場に至る谷筋を正面とする城と言える。

 

注1 相城とは敵城を攻めるために攻城軍が築いた砦を示す言葉で、向城・付城と同じ。「忍山相城」は忍山城と向かい合う位置にある勝尾城(岡山市北区)と思われる。

勝山城。南側から撮影

南斜面の畝状竪堀群

参考文献

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』岡山県  1985年

  加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 

藤沢城 岡山県加賀郡吉備中央町加茂市場・田土

別名:狸ケ城

標高340m 比髙140m  

主な遺構:土塁・井戸・堀切・竪堀・竪土塁

アクセス

 吉備中央町役場加茂川庁舎のある下加茂から宇甘川沿いの県道31号を西へ。県道66号の分岐する加茂市場の交差点を過ぎて200mほど、右折して日名集落内に入れば、藤沢城東側中腹の神社(案内図参照)へ向かう車道が延びている。この神社から尾根伝いに登る山道がある。西南麓の仁熊から城跡西方鞍部を経由するルートも使える。                 

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 藤沢城は備前備中国境をなす丘陵上に城があることから、境を接する両国の村にそれぞれ伝承が残る。江戸期の備前国地誌である「東備郡村誌」(「東備」は備前の別称)は「加茂市場村藤沢城址 毛利家の砦なり、天正年中毛利家の将粟屋與十郎これを守る」。

 備中側の「備中府志」では上房郡竹庄の田土村の項に「藤沢城 城主肥田淡路宗房」とある。藤沢城の名は賀陽郡上土田村の項にも見え、「当城は芸州持、城代山縣三郎兵衛尉」とあるが、現在の岡山市北区上土田に藤沢城という遺跡は確認されていない。藤沢城の位置としては田土村が正しいが、「芸州持」とする点では上土田村の記載に分がある。何らかの混同があったようだ。

 また軍記「中国兵乱記」によれば、永禄2年(1559)九月毛利氏が備中の諸将を率いて九州に出兵している留守を窺い、宇喜多勢が竹荘・吉川・中津井に侵攻。対抗して毛利方は備中境目の藤沢に砦を築き、中島加賀守・野山清左衛門ら備中の国衆と毛利から派遣された井上源右衞門(元勝)らを城番に入れたと記すのだが、記述された内容は天正8年(1580)の状況と思われる。

 これらの地誌や軍記から、本城は天正年間毛利方の軍事拠点として築かれたということになるのだが、備中境の押さえとして宇喜多方が築いた城を毛利軍が攻め落とし、虎倉城攻めの拠点としたと記すものもある(吉備温故・虎倉物語)。

 中国兵乱記に名前の見える井上源右衞門は、天正7年(1579)10月から備中国中津井の佐井田城に在番しており、翌8年4月16日「備中(ママ)加茂」で討死したことが確認できるから(藩閥閲録 巻38)、最前線の藤沢城に送り込まれていたようだ。源右衞門の死亡が伝えられた日は、伊賀軍との戦いで粟屋與十郎を大将とする毛利軍が大敗を喫した、いわゆる「加茂崩れ」の直後だから、この戦いによる討死と見られる。

 加茂崩れの後、毛利軍主力は藤沢城から撤退するが、同年5月には佐井田城に在番していた和智主水允が城番に命じられているから、放棄したわけではないようだ(藩閥閲録 巻131).

 藤沢城の東方1km、宇甘川の対岸には伊賀氏の拠点である福山城が築かれていたから、一時期本城は文字通り「向城」(敵の城を攻めるとき、それと相対して築いた城)であったことになる。

 宇甘川の川筋には金川から竹庄をへて高梁に至る金川往来、城の東側には備中南部から伯耆大山へ向かう大山道が抜ける。城麓の加茂市場は二つの古道が交わる交通の要衝でもあったから、藤沢城にはこれらの道筋を監視し確保する役割もあったはずだ。

 

 遺構は上の図でA・B・Cの3カ所に広がる。両備国境に築かれた城だが、正確に言えば標高340mの丘頂に載るAの遺構が国境に、北に延びる尾根上B・Cは備前側に位置する。Aの曲輪群では要所に土塁・竪土塁・堀切を配置しており、最も丁寧に普請されていて、本城の中核をなす。ただ曲輪について言えば、1郭が塁線を直線的に調えて加工度の高さを見せるが、多くは自然地形に規制されて不整形なものに止まる。

 1郭の北側や東尾根の諸郭では、上段の曲輪から下段の曲輪の側面に伸ばされた土塁が諸郭を結ぶ連絡路となる(図中a)。こうした特徴をもつ城は安芸・備後に多数残るが、虎倉城その他伊賀氏領域の諸城さらに備中・美作の範囲でみても例が少ないことから、城は毛利勢によって改修(あるいは築城)されたものと思われる。

 またbの土塁は斜面を下っていく竪土塁で、主郭部東側に入り込んだ谷間の曲輪群の側面を防御するものだ。これも珍しいもので、他には広島県三次市の比熊山城など数例が確認できているだけだ。

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藤沢城(部分)

 1郭から北に延びる尾根に設けた堀切はその先端が三方向に下る竪堀となる。そのうち東へ延びる竪堀が登城路として利用されており、虎口受けの小郭 cをへて虎口に導かれる。この登城路を進攻する敵に対しては上方の曲輪から攻撃が可能であり、堅い守りの虎口となっている。登城路はもう一つ、Aの西側尾根筋にもある。dが虎口で、南北両斜面に下ろした竪堀群で狭められた通路となる。

 一方、B・Cの曲輪群は共に尾根筋をわずかに削平して曲輪を連ねたものであり、天正8年毛利軍による伊賀攻めに際して、兵の臨時的な駐屯スペースとして造成されたものと思われる。

 注目されるのが、B曲輪群の行儀良く並んだ四重堀切eである。北端の1基は一段低い位置に築かれて通常の堀切の姿を見せるのだが、残る3基は既存の曲輪を破壊して造成されたものらしく、空堀に挟まれた3本の土塁部分が、同じ高さの跳び箱を横向きに並べたような姿をみせる。堀切両端は山腹斜面に大きく伸ばされて、その総延長は50mに及ぶ。堀切はこのほか、Bの西尾根、Cの2郭北側にも残る。

 Cの2郭が本城最大の曲輪で、切岸部分が高さ2~3mの壁をなすものの、曲輪面の加工は不十分で北に向かって傾斜する。堀切を挟んで北東に延びる尾根上にも5段の曲輪が並ぶが、何れも土木工事量はわずかなものに止まる。

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四重堀切のうち南端のもの。手前は堀切にはさまれた土塁部分

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四重堀切の東斜面側。堀切が竪堀となって伸びている

参考文献

 加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 賀陽町教育委員会『賀陽町史』  1972年