大仙谷城(仮称) 広島県庄原市本町 

標高350m 比高70m

主な遺構 土塁・堀切

アクセス

 城は庄原市街の北、西城川対岸の丘陵中にある。JR芸備線庄原駅の東方にある柳原橋を渡り、道なりに直進して谷沿いに北上する。案内図に示した登り口の先に道はなく、藪こぎとなる。

   

 庄原市街の北、西城川対岸の低丘陵上に山王山城があって、赤色立体図を眺めていたら、この丘陵の北寄りにある急角度の斜面に囲まれた平場に気づいた。よく見ると平場の縁には土塁が巡っている気配まである。

   

 で、現地踏査し作成したものが下図。

   

 遺構のある丘頂部は高さ4~6mの急峻な切岸に囲まれており、四角い物体を載せたように盛り上がる。平坦に整地された丘頂は全周土塁に囲まれ、高さ2mの中仕切り土塁によって二区画に分かれる(図中1・2)。

 1・2共に東斜面側に入口があり、いずれも入口を挟む一方の土塁を内折れさせた丁寧な造りとなる(図中a・b)。2にはもう一つ、西斜面を登る道(c)があって、この入り口を塞ぐように掘られた径4m程の窪地(井戸?)は虎口防御を意図したものなのか。

 城の南側には尾根が八の字状に開いて伸びる。これに挟まれた谷間には緩斜面が広がり、2の直下まで後世の開墾の手が及んでいたようだ。不明瞭になっている南東・南西の堀切1・2は開墾によって一部破壊されているようで、丘頂北側数段の平坦地も開墾によるものなのかもしれない。

 この遺構は江戸時代の地誌や『日本城郭大系』『全国遺跡地図』などの文献にも載らないし、地元の伝承もないのだが、これらのことから城跡と判断し、麓の地名によって大仙谷城と呼んでおく。

 大仙谷城(仮称) 南西尾根から撮影。

 1郭 奥に見えるのは中仕切りの土塁

2郭。Cの虎口から南側を撮影

 丘陵の南端にある山王山城との関係も気になるところだ。山王山城のある柳原は中世においては永江荘に含まれ、山内氏所領であった。ここに毛利家臣の庄原木工助が配置されたのは、山内氏が毛利氏に服属した天文22年(1553)以降のことらしい。

 山王山城も土塁囲みの曲輪2つを連ねていることなど、規模の違いはあるものの大仙谷城と瓜二つの縄張りだ(下図)。さらに安芸・備後で土塁囲みの曲輪を持つ城は土居屋敷や陣城の例を除けばごく少数であることを考えれば、両者の間には深いつながりがありそうだ。大仙谷城は山王山城の背後に備えた出城なのかもしれない。  

 

参考文献

「全国Q地図 地形図・地理空間情報の総合閲覧サイト」 https://info.qchizu.xyz

表 邦男『広島の中世城館を歩く』渓水社 2021年

赤城  広島県三次市布野町横谷

標高480m 比高60m

主な遺構 土塁・堀切・竪堀

アクセス 三次市街から松江方面へ向けて国道54号を北へ。島根県境の赤穴トンネルの手前4kmほどの所に横谷ふるさとセンター(旧横谷小学校)があり、赤城はこの裏手の山にある。ふるさとセンター裏の橋を渡った所から登る。

   

 横谷といえば木造のおしゃれな建物の横谷小学校があったのだが、児童数の減少で閉校。現在は横谷ふるさとセンターとして地域の人に使われている。赤城はここから北に見上げる山にある。

 曲輪といえば尾根端のピークを占める主郭と南尾根上の小郭群だけという小さな城だ。背後に連なる尾根を遮断する3重堀切のうち2基は尾根筋をわずかに刻むだけだから、背後はさほど重視していないように見える。その一方、主郭の周囲に派生する枝尾根を刻み込んだ竪堀・堀切は、下図にみるようになかなかに凄まじい。  

赤城縄張図

 赤城から550m離れた位置にもう一つ城があって比丘尼城と呼ばれているという。困ったことに『布野村誌』に載る比丘尼城縄張図は、上掲赤城縄張図とほぼ同じだから、上掲図は赤城・比丘尼城のどちらなのかということが問題となる。

 『芸藩通志』横谷村絵図をみると、赤城は小支流の分岐する「瀬戸谷」を見下ろす位置にあるから(下図および案内図参照)、上図は赤城とみられる。地元の伝承には何らかの混乱があるようだ。  

     

 『芸藩通志』は赤城について「小早川隆景人をして守らしむ」と記す。毛利家を中心として、元就の三男である小早川隆景は山陽・瀬戸内方面、次男吉川元春は山陰方面の軍事・統治を分担していたから(いわゆる「毛利両川体制」)、出雲国境間近のこの奥地に隆景が番衆を配置した城があったとするのは何というか、意外な気分。

 城麓には赤穴峠を越えて出雲に向かう街道が抜ける。峠の間近にある赤城はこの道筋を監視する城だったのかもしれない。

 

参考文献

芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』34 広島県(1982)

布野村誌編纂委員会『布野村誌』2002年