三隅高城  島根県浜田市三隅町三隅

別名 三隅城

標高362m 比髙310m

主な遺構:堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 高城は三隅市街の東方にある。高城山中腹の龍雲寺前を抜けて、山頂北側まで車道がある。終点の駐車場から山頂まで10分足らず。よく整備された山道が伸びている。

   

 城の載る高城山の比高は300mを越える。いかにも南北朝期の戦いに登場する城らしく、高く険しい山に築かれている。城は東西に伸びる尾根に沿って曲輪を連ねる素朴な縄張りだが、東西両端に発達した竪堀群が存在することから、現在見られる遺構は戦国期の改修によるものと思われる。

 山頂の1郭は東西50m南北15~20mほどの規模で、東寄りに櫓台とみられる土壇を持つ。高く険しい山だけに山頂からの眺望は大きく広がり、高城周囲に配置された10カ所を越える支城のほとんどを視界に収める。

 縄張りで注目されるのは、2郭から西に伸びる支尾根に刻まれた2基の竪堀(図中A)である。以前当ブログで取り上げた「大嶽山城」(島根県大田市)の竪堀と同じタイプのものであり、尾根筋を攻め上る敵に対して、鉄炮による迎撃を想定したものと思われる。

 東尾根の3郭下方に刻まれた畝状竪堀群は崩落が進んで遺構がわかりにくくなっているが、『三隅町誌』に「山麓に向かって八本の壕が自然地形に合して流れている」とあるとおり、最大傾斜の方向(つまり放射状)に刻まれたものだ。竪堀群の下、東南に延びる尾根があって、ここにはさらに堀切Bが刻まれている。

 不思議なのは、この堀切Bの外に図中赤丸で示した小郭群が見られることである。2郭西側の尾根でも同様にAの竪堀下に小郭群が並ぶ。

 防御ラインをなす竪堀群・堀切の外に貧弱な加工の小郭が並ぶのは、古い時代の遺構が戦国期に築かれた堀切・竪堀群の外に取り残されたものなのか、あるいは戦国期の陣城の遺構なのか、疑問が残る。

 なお、このような小郭群は図中に示したもの以外、いくつかの尾根に確認されている。

 

 高城は益田氏一族の三隅氏が本拠とした城である。益田氏の祖先は摂関家藤原氏の一族であり、永久年間(1113~18)国兼の時代に石見国益田庄に下向、最初御神本を名乗ったが、4代兼高の時から益田氏を称するようになったという。益田氏一族のうち、三隅氏は益田氏4代兼高の次男兼信に始まる。 

   

 南北朝期、宗家である益田氏は北朝方、三隅氏は南朝方に分かれて対立しており、三隅氏は興国3年(1342)に北朝方による攻撃を受けたのをはじめ、繰り返し高城は戦いの場となっている。

 戦国時代に入っても益田氏との対立は続き、三隅氏は次第に衰えていったようだ。天文21年(1552)には益田藤兼は大内義長から三隅氏の所領の領有を認められ、三隅氏を攻撃。永禄5年頃には三隅氏所領の大半は益田氏に奪われたものと推測されている(「中世益田講座」)。

山頂の1郭からの眺望(奥に見えるのは日本海

1郭東側の腰曲輪。奥は1郭

 

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参考文献

三隅町誌編さん委員会『三隅町誌』1971年

廣田八穂『西石見の豪族と山城』 1985年

島根県教育委員会 島根県中近世城館跡分布調査報告書 第1集 

                         『石見の城館跡』 1997年

益田市教育委員会『中世益田ものがたり』 2017年

「中世益田講座 益田氏をとりまく大名・領主層」.益田市.https://www.city.masuda.or.jp/(参照2022-07-15) 

 

櫃城  島根県江津市松川町上長良

別名 龍城

標高140m 比高130m

主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群  

アクセス

 江津市街から江の川沿いの国道261号を東へ。槇原トンネルを抜けたところから植林地の中を尾根を目指す。尾根にたどりついたら尾根伝いに登っていけばばいい。

   

櫃城縄張図

 城は南に江の川西に上津井川を見下ろす急崖の上に築かれている。上津井川対岸には松山城があって当城はその出城とされるが、出城というには随分規模の大きい城となっている。

 山頂の主郭(1)は長辺35m短辺25mの長方形。これを中心に四方に派生する尾根に曲輪が配置される。

 主郭を囲む曲輪のうち最も丁寧に防御施設を整えているのは、背後につながる尾根を見下ろす4郭だ。尾根筋には四重堀切、ここから北斜面にかけて3基の竪堀を連ねる。また北尾根の3郭は西尾根の分岐点にあり、北尾根を遮断する堀切と、これに並べ築いた畝状竪堀群で防御を固める。

 1・3郭のような主要な曲輪はしっかり整地されているのだが、切岸の造成は不十分で曲輪の周囲に未加工の緩斜面が放置されたところが見られる。1郭の南尾根や西尾根など、尾根に沿って小郭が並ぶ姿は陣城を思わせる。図中には示していないが、小郭は不明瞭なものを含めればもっと多い。従って、全体的にみれば急遽造成した城のように思える、

 

 永禄4年(1561)福屋隆兼が毛利に叛旗を飜して尼子方についたことから、毛利による福屋討伐の戦いが始まる。翌5年2月毛利軍は松山城の背後「堂床」に布陣。2月6日にまず櫃城、次いで松山城を攻め落として福屋氏の本拠乙明城に向かっている。

 松山城に籠城していたのは福屋隆兼の二男福屋隆任とその家臣神村下野守、さらに尼子の援軍として牛尾次郎左衛門も加わっていた(『萩藩閥閲録』巻15)。

 この福屋隆任が松山城及び櫃城城主と伝わるから、当城は伝承のとおり松山城の出城とみてよさそうだ。 一方、「皇国地誌」では城主を高井又次郎、そののち福屋氏の家臣重富照房とし、重富は元亀元松山城の戦いで死去したと記すが、詳細は不明。

1郭

3郭下方の堀切は麓に向けて大きく伸び、脇には畝状竪堀群が並ぶ

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参考文献

「皇国地誌」 (江津市誌編纂委員会『江津市誌』別巻 1982年)

廣田八穂『西石見の豪族と山城』1985年

「二宮佐渡覚書」(『戦国期中国史料撰』マツノ書店 1987年)

『日本城郭大系14 鳥取・島根・山口』 新人物往来社 1980年