皿山城 岡山県津山市皿

別名:笹山城

標高306m 比髙200m  

主な遺構:土塁・堀切・竪堀・井戸

アクセス

 津山市街から国道53号を南下。右手に佐良小学校が見えたら、次の信号を左折して県道449号に入り津山線の線路を渡る。約1km進んで道沿いの民家が途切れるあたり、笹山東側の谷筋に向けて山林作業用の林道が延びる。その終点付近から直登したのだが、激しい藪こぎ。さらに南下して尾根を目指した方が良いかもしれない。

     

     

 皿山城は津山市街の南方、標高306mの笹山(篠山)山頂一帯に築かれている。山頂部は南北2つのピークに分かれており、北側ピークに城の中核部である1郭以下が、堀切を挟んで南側ピークにごく甘い普請の4郭その他の小郭がある。

 1郭は長辺50m短辺20mの長方形で、その南端部には三方を高さ2mの切岸にかこまれた穴蔵状の小郭(図中a)が残る。その用途は不明だが、周匝茶臼山城(赤磐市)にみられたような水や食糧の貯蔵穴に類するものなのか。

 1郭北端の溝状部分から3郭にかけて、木材搬出のための作業道建設によって遺構の一部が破壊されているのだが、3郭西端は削り残しの土塁と竪堀の組み合わせによって曲輪側面を固めたものと見てよい。1郭西下方の小郭 bも同形だ。小郭の連なる北東尾根の付け根には「月見の池」と呼ばれる湧水井戸が残る。

 当城では西側に延びる尾根に緩斜面が広がるから、西斜面側の防御を重視しているようだ。ただ、図中cの曲輪と竪堀の配置は北西尾根への備えとしては不審であり、普請途上で放置したものなのか、あるいは単に遺構の見落としや作図の歪みに過ぎないのか。判断しづらい部分だ。

 

「作陽誌」は和歌に詠まれた「久米の佐良山」を嵯峨山城とするが、同じ読みの皿山城に充てる説もあって、両城を巡る地誌類の記述には混乱がみられる。『角川日本地名大辞典』によると、佐良山がどの山を指すかについて諸説があって定かでないとし、一般には「佐良三山」と称される3つの山(笹山・嵯峨山・神南備山)のいずれか、あるいは三山の総称であるともいうとある。 

 「美作国古城并城主之覚」によると、永正年中(1504-21)までは伊利谷長昌が在城、その後天正年中(1573-92)まで宇喜多秀家の陪臣河端丹後が在城したという。

 嵯峨山城についてはこちら

kohanatoharu.hatenablog.com

 

参考文献

『新訂作陽誌」 作陽新報社 1975年

『角川日本地名大辞典 33岡山県』 角川書店 1995年

「美作国古城并城主之覚」 岡山県史編纂委員会『岡山県史』第25巻 1981年

 

嵯峨山城 岡山県津山市中島・平福

別名:州前城 

標高260m 比髙150m 

主な遺構:土塁・堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 津山市街から米子方面に向かう国道181号を進む。やがて岡山方面に向かう国道53号の分岐がある。53号に入り吉井川を渡り平福に入る。案内図に示した登り口から城跡までしっかりした道が延びている。登り口付近の道は狭く駐車が難しいから要注意。

      

 は三角点のある嵯峨山主峰の北側、吉井川を見下ろす急崖の上に築かれていて、北側に広がる津山盆地を一望の下に収める。

 1郭内部は建物基壇を思わせる方形区画の部分などいくつかの小区画に分かれる。南辺から東辺にかけては土塁に囲まれる一方、西~北辺は高さ1~2mの切岸に守られるだけで、切岸下に残る緩斜面も放置したまま。要するに吉井川へと落ち込む急崖に面した部分では自然地形の防御力に依存しているということだ。 

 1郭に開かれた虎口は2カ所。東辺の虎口は土塁切れ目に開かれたもので、両脇の土塁は湾曲して伸びるから虎口部に横矢を掛ける形となっている。南辺の虎口は小郭3の側面を防御する土塁上に繋がる。

 2郭は折を伴う直線的な土塁に囲まれており、小郭3と共に土塁外壁に横矢を掛ける。高さ3m程の土塁外壁下には横堀(図中A・B)が刻まれ、いずれも両端は下方斜面に伸びて竪堀となる。

 嵯峨山主峰に繋がる南尾根にはさらに堀切1基が刻まれる。これに隣接して6基からなる竪堀群が並び、その脇に2郭虎口が開かれる。城の周囲に伸びる尾根としては他に登城路のある東尾根があるが、ここに堀切は見られず放置されている。 

 この城では南方面の構えは厳重なのだが、上記のように東尾根が放置されていること、1郭北斜面側の普請は甘く3郭側面の土塁脇にも竪堀が刻まれていないことなど、アンバランスな縄張りだから、長期にわたって継続的に使用された城のようには見えない。

 

 『作陽誌』は和歌に詠まれた佐良山をこの嵯峨山とし、別名洲崎城ともいうと記す。城は南北朝期赤松孫三郎教弘が築き、その後天文年間には尼子氏の美作進出によってその門属錦織右馬助利路が居城。尼子氏の滅亡後は毛利の部将肥田左馬助・高橋四郎兵衛が在番したが、元亀2年(1571)荒神山城主花房職之が攻落し、守備兵をいれたという(『美作古城史』)。

 

参考文献

『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年

寺坂五夫 『美作古城史』 作陽新報社 1977年

津山市史編さん委員会 『津山市史 第二巻中世』1977年

久世町史資料編編纂委員会『久世町史 資料編』2004年