標高290m、比髙80m
主な遺構 土塁・石組み井戸・堀切・畝状竪堀群 (姫ヶ嶽城)
アクセス
三次市街から「歴史街道」の愛称をもつ赤名峠越えの国道54号を北上。8kmほど進んだあたり、君田町に向かう県道62号が分岐する。この交差点の西側丘陵上に姫ヶ嶽城・大城山城がある。交差点を過ぎて左折し、小川沿いの狭い道に入れば小川に架かる鉄製の橋がある。ここから登る。
下布野村の古城について『芸藩通志』城墟蘭では次のように記している。
狐城 下布野村にあり、槇原藤五左衛門といふ者居守せしといふ、岡三淵村茶釜谷合戦に下布野村姫が岳城主槇原と伝ふれど、当村ひめが岳なし、けだし此山をいふにや
大城山 同村にあり、三吉安房所居
『芸藩通志』の下布野村絵図でも記載されるのは「大城」だけで、姫ヶ嶽城はみえない。地元布野では姫ヶ嶽城の所在は曖昧になっていたようで、城墟蘭の記載には混乱がみられる。
大城山城主と伝える三吉安房について、三吉氏系図によると三吉氏十二代当主豊高、十三代致高、十四代隆亮が安房守を名乗っており、布野は三吉致高の知行地でもあったから(毛利家文書)、比叡尾山城を本拠とした三吉氏がここに城番を配置していたということなのかもしれない。
大城山城
城は南北二つの曲輪群からなる。北曲輪群では比較的大きな曲輪もあるが、ほとんどの曲輪は小規模な削平地であり、1m前後の小さな段差で連なるから、ぼんやり歩いていたら見落としてしまうような、かすかな遺構となっている。
1郭背後には二重堀切、北東に延びる尾根上にもう一カ所堀切が刻まれているが、いずれも深さ1m前後の浅いものだ。
南曲輪群でも状況は同じ。山頂の2郭から3郭の間には14の小郭が連なる。下写真は東尾根に連なる曲輪から2郭を見上げたものだが、曲輪間の段差はごく小さいから写真ではなだらかな斜面にしか見えない。
いくらか城らしい雰囲気を感じるのは、背後に土塁を備えた3郭とその周辺である。ただ、土塁外壁下に堀切は無く、南斜面に下る竪堀が見られるに過ぎない。
このような構造から、三吉氏の支城として継続的に使われた城ではなく、陣城のような臨時的な城と思われる。
姫ヶ嶽城
姫ヶ嶽城は、大城山から東に延びる尾根上のピークにある。丘頂から北と東に伸びる尾根にかけて遺構が広がり、2つの尾根に挟まれた谷間には石組みの井戸が残る。ただ、残念なことに山仕事の作業道建設によって東斜面では遺構が不明瞭になっている。
丘頂の1郭から両脇の曲輪にかけて、曲輪の西辺が高さ1m前後の土塁で囲まれる。北尾根の2郭でも、1郭の土塁から下ってくる斜面を整形した竪土塁で曲輪側面を防御している。
北尾根ではさらに数段の曲輪が並び、その下方には5基からなる畝状竪堀群、その下に堀切1基が刻まれる。東尾根には未調査部分を残している。
1郭土塁と土塁外壁下に刻まれた堀切との間は高さ18mに及ぶ急崖であるが、大城山につながる稜線にはさらに2基の堀切( a・b ) が刻まれている。このうち、aの脇には石造りの炭窯跡が残るから、炭窯周辺に見られる造成地は後世のものかもしれない。
いずれにしても、当城はしっかりした造りの城であり、石組み井戸まで備えているから、『芸藩通志』で「三吉安房所居」と記す大城山はこの城を指しているものと思われる。
天文9年(1540)尼子軍は毛利氏の本拠郡山城を攻撃するが、敗れて退却。その4年後の天文13年には再び備後に侵攻し、7月28日布野で尼子軍と三吉・毛利軍の戦いが起こる。戦いの場となったのは山崎(案内図参照)と、井手原(三次市三原町)で、尼子軍の大将尼子国久は姫ヶ嶽城の北2kmの向竜山に本陣を置いていたという。
下布野にある知波夜比売(ちやはひめ)神社の由緒に、天文年中(1532-55)毛利・尼子合戦の際、姫ヶ嶽城の麓にあった社殿を焼失したとあるから(『広島県神社誌』)、当城一帯でも戦いが行われたようだ。
上記のように大城山は陣城の様相を見せるから、この戦いで毛利・三吉軍が陣所としていた可能性がある。
参考文献
得能正通編『西備名区』(『備後叢書』 東洋書院 1990年)
布野村誌編纂委員会『布野村誌』2002年