伊勢畑城  岡山市北区建部町下神目・久米郡久米南町上神目

標高250m 比髙160m  

主な遺構:土塁・横堀・堀切・竪堀・竪土塁

アクセス

 岡山市北区建部町の中心街福渡から津山方面へむけ国道53号を北上。岡山市から久米南町に入ったあたりが神目で、信号のある十字路を左折し県道375号に入る。やがて現れる高原上の集落が向井田だ。集落に入ったらまず集落南端の民家を目指す。そこから城まで約1km、尾根伝いの道が延びている。

      

 伊勢畑城の北にある向井田は標高250m前後の高原上の集落だ。城はここから南に延びた尾根が二手に分かれる所にあって、尾根に挟まれた谷間を城域に取り込んで築かれている。城の規模は南北300m東西200m。比高は東麓を流れる誕生寺川との間で160m、急崖の上に築かれた城である。

 城の中核部は最高所の1郭を中心に土塁囲みの2・3郭が取り巻き、三段構えに造成されている。このうち3郭は小さな段差の数区画に分かれ、未加工の斜面も取り込んだ曲輪となっている。土塁外壁の高さは最大で3mほど。土塁のラインは折をともなって直線的に整えられており、外壁下にはうっすらと横堀が確認出来るところもある。

 中核部から東側と南側に伸びる尾根上に4・5郭が配置される。ここでも曲輪の外周は土塁・横堀で囲まれるのだが、わずかに削平の痕跡が見られるだけで整形は不十分。小さな段差で多数の小区画に分かれる。

 馬蹄形をなす尾根に囲まれた谷間には両側の4・5郭から土塁が延びて、この谷間を自然地形のまま城域に取り込んでいる。谷底には土塁の開口部 e があり、南麓からの登城路に虎口を開いている。虎口脇には谷間の湧き水を求めたと思われる井戸跡も残る。

 城の北端は『美作古城史』の観察通り、三重の堀切が北方に延びる尾根を遮断しているのだが、防御の主役をなすのはその上方、階段状に築かれた横堀である。

 現在、城内まで作業道が延びて遺構の一部が破壊されているが、堀切を見下ろす位置にある2郭の土塁内側は掘り窪められて横堀になっており、その下方の横堀とあわせ二段構えの横堀となる。城壁の高さは2郭と下段の横堀の間で5m前後、下段の横堀は外壁の高さが3m。単に防御壁としてだけでなく,迎撃の足場としての役割を果たすことが期待された防御ラインであったと思われる。

 この壁を避けて東側山腹に回り込む動きに対しては、行く手をさえぎるように二条の竪堀が待ち受けている。4郭東辺を縁取る横堀は4郭南端まで延び、その延長は300mに及ぶ。そして下方斜面には土塁囲みの帯曲輪が階段状に配置されており、ここでも二段構え三段構えの防御ラインを形成している。

 東斜面を登ってくる道が帯曲輪の間を抜け、横堀に掛かる土橋(b)をわたって4郭に入るのだが、後世の作業道なのかもしれない。

 5郭から南に延びる尾根は三条の堀切で遮断。堀切脇には高い土塁に囲まれて穴蔵状を呈する小郭が付属する。堀切の堀底は通路として使われたようで、小郭の土塁脇に虎口(d)が開いている。土塁外壁は高さ4mの急峻な切岸となるから、小口脇の小郭と相まって硬い守りの虎口となっている。

 この城は切岸の造作や土塁・横堀など、防御施設そのものは丁寧に作られている。城の中核部では曲輪の造成もていねいだが、周辺部では削平が甘く、未加工の自然地形をそのまま取り込んだところも多い。塁壕は誕生寺川に面した東側だけに築かれていることから、東の川筋に意を用いた縄張りといえる。

 

 江戸期の地誌『作陽誌』は、永正の頃(1504-21)赤松家盛が在城したと伝える。家盛は播磨・備前・美作の守護を兼帯した赤松氏の一族という。赤松氏の勢力が衰えたのち、赤松氏に従っていた菅納・沼元ら神目の国人は美作に勢力を広げてきた浦上宗景に、次いで宇喜多直家に属した。

 天正二年(1574)宇喜多直家は毛利と結んで浦上宗景と断交。やがて両者の戦いが始まる。浦上方の攻撃を受けた菅納・沼元らは伊勢畑城に籠もり、一夜の内に防御の柵を結い回したが、伊勢畑城は小勢では守りにくいからと、蓮花寺城に移り浦上軍と戦ったという(美作古城記・菅納家記)。 

 城の北1kmにある高原上の集落向井田には、鶏の騒ぐ声が落城の契機となったからここでは鶏を飼わなかったと伝えるし、勝負田・降矢(ふるや)といった地名も残る。一方西麓の志呂神社周辺では、落城の折瓜のつるに足を取られて倒れ、敵に討ち取られたことから瓜は植えなかったと言い伝える。

 こうしたタブーを伴う落城伝説は各地に残るのではあるが、城の周囲でも戦いがあったのかもしれない。

緩斜面をそのまま土塁で囲い込んだ曲輪(4郭)

参考文献

 正木輝雄 『新訂作陽誌』1975年 作陽新報社

 寺坂五夫『美作古城史』 1977年 作陽新報社