標高263m 比髙180m
主な遺構:堀切・石垣・畝状竪堀群
アクセス
建部町の中心街福渡から旭川に沿って国道53号さらに県道30号を進む。右手に鶴田郵便局が見えたら、この背後にそびえる山に鶴田城がある。川沿いの道をさらに500mほど進むと右手の山腹斜面に向けて斜めに上る道が分かれる。高原上の集落和田南に上る道だ。城山背後の鞍部から登る。
7月23日日付けのブログで取り上げた高城と今回の鶴田城、いずれも天正8年(1580)宇喜多軍の攻撃を受けて竹内氏・杉山氏らが籠もった城なのに、高城と鶴田城の縄張りの違いに唖然とするばかり。
高城が敵襲に備えて防御を凝らした緊張感のある縄張りを見せるのに対し、この鶴田城は垪和郷一帯を支配した垪和氏(竹内・杉山)の本拠城なのだが、広々とした城内は軍事的緊張感とはほど遠く、のどかで古風な縄張りの城だった。
江戸期の地誌『作陽誌』は鶴田城主を垪和(芳賀)八郎為長と伝える。垪和氏は垪和郷(現在の美咲町から岡山市北区建部町にまたがる地域)に勢力を有した豪族で、鶴田城はその本拠城であった。
垪和為長の死後、鶴田城はその弟杉山備中守為就が受け継ぎ、為長の子竹内為能は鶴田城の北1kmの高城に居城したという。垪和郷は旭川東岸に広がる標高300~400mの高原(吉備高原)上に広がる地域で、この両城は高原を刻む峡谷に迫りだした急崖上に築かれている。
天正8年2月、垪和郷の竹内・杉山一族が宇喜多氏から離れて毛利方についたことから、垪和郷の諸城は宇喜多軍の攻撃を受けて順次攻め落とされ、そして8月には高城が陥落して一族は滅亡する。
鶴田城は旭川の川岸から立ち上がる急崖の上に築かれた城であるが、山頂一帯にはなだらかな地形が広がる。城の遺構は標高263mの山頂を中心にして、北東ー南西に延びる稜線上に配置された曲輪群からなる。
山頂を占める1郭と西側の3郭、北東尾根先端の2郭はいずれも長辺50m短辺30m前後の大規模な曲輪で、3郭には城主の垪和八郎為長と杉山備中守為就を顕彰する石碑がある。1〜3郭の周囲には1~2m程度の小さな段差で帯曲輪・帯曲輪がひな壇状に並び、各所に小規模な石垣が残る。
1郭と2郭の間には4段の腰曲輪が並び、脇には諸郭を結ぶ通路が延びる。この通路は2郭を囲む帯曲輪を経て3郭へと繋がっていることなど、発達した帯曲輪が諸郭を結ぶ通路を兼ねているようだ。
城の北側鞍部から尾根筋を登ってくる道は、尾根を遮断する堀切に架かる土橋(a)を渡り、さらに竪堀を渡って北側山腹をトラバースし、1郭北側の帯曲輪に入る。通路脇の畝状竪堀群は北斜面に広がる緩斜面を潰すことによって、虎口に向かう敵兵の行動を制限する役割があったものと思われる。
南斜面にも登城路があったようで、3郭南側の帯曲輪に虎口bが開く。虎口脇に竪堀を築いて、文字通り狭められた小口(虎口)となっている。
曲輪は広く、ゆったりとした城内なのだが、攻め上る敵を食い止める工夫が見えるところは南北両斜面を登ってくる登城路沿いと虎口部分だけだ。三方に派生する尾根に堀切は刻まれていないし、攻め上る敵を上方の曲輪から迎え撃つにしても、階段状に並ぶ曲輪の切岸は1~2m程度と低く、防御力がさほど高いとは思えない。
その中で北斜面に残る畝状竪堀群は、宇喜多軍の攻撃が迫る中で急遽普請し防御を固めたもののように見える。
参考文献
『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年
寺坂五夫『美作古城史』作陽新報社 1977年