定砦   岡山県真庭市上中津井定

標高210m 比髙20m  

主な遺構:土塁・堀切・竪堀

アクセス

 高梁市街から北房へ向けて国道313号を北上。北房運動公園入口の交差点を右折して中津井川を渡る。川沿いの道を南下して定集落に入れば、城は集落背後の丘にある。

      

     

 城は南に延びる低丘陵に築かれたもので、定石通り背後の尾根を堀切で遮断し、その内側に土塁を盛っている。曲輪は三段構成で中央の1郭が主郭と思われる。その規模は40m×30mの方形で、南面に虎口を開く。堀切面の小郭は背後に備えた櫓台か。

 登城路は西側の谷間から堀底道をへて下段の2郭に入る。2郭南側の尾根筋には緩斜面が広がるが、切岸の高さは1~2m程度のもので、堀切などの防御施設は確認できない。耕地に隣接した低い城だから、後世の破壊を受けている可能性はあるが、防御の構えとしてはさほど厳重なものではない。

 従って当城は小高い丘に営まれた土豪の居館跡のように見える。そうすると「定砦」の「砦」という呼び名は何かそぐわない。

 念のため「砦」の意味を調べてみた。

 

やはり、砦とは軍事面の機能を主体とした小規模な城を指している。

北房町史』が「砦」の名で呼ぶ城は、他に上合地砦と土井砦があって、両者とも曲輪の整形が不十分であり、恒常的に使われた城ではなさそうだ。

いずれにしても、防御面を重視しているとは思えないこの城が、なぜ砦の名で呼ばれるのか疑問が残る。

 土井砦の記事はこちら。

 

kohanatoharu.hatenablog.com

 

 北房町史では、北麓(西麓?)に室家の屋敷があるところから、城主は室大和守の一族と推定している。室氏は戦国期には尼子に従っていたが、宇喜多氏が毛利から離反した天正7年以降は伊賀氏に従って毛利軍と戦い、伊賀氏の毛利帰属とともに毛利氏に従っている。

 この室氏との関連は不明だが、毛利氏の天正検地をもとに作成された「毛利氏八箇国御時代分限帳」には、室新兵衛、室五郎右衞門の名が見え、それぞれ備中哲田郡に20石の給地を持っ。

       

参考文献

 北房町史編纂委員会『北房町史』1983年

 新見市史編纂委員会『新見市史』1993年

 岸 浩『毛利氏八箇国御時代分限帳』1987年

 光成準治「室家資料と中・近世移行期の中間層」(岡山県立資料館紀要 第3号 2008年)