三見城 広島県府中市上下町小堀 

 標高545m 比髙90m 

 別名 小堀城

 主な遺構 堀切・竪堀・土塁

 アクセス

 上下の中心街から県道25号を北上。小堀の吉野郵便局を過ぎた所で右折し、上下川を渡る。やがて道が小川沿いの道になるあたり、右手に迫る低い丘が平田城だ。小川沿いの道をさらに東へ1km、中野村集落裏手の山に三見城がある。集落を通り過ぎて左折し、城跡東側の谷を北上すると城山の背後を越える山道がある。案内図に見える破線の道だ。峠からは尾根伝いに南下すればいい。

       

三見城

 江戸期の地誌「西備名区」は城名を「小堀城」、城主を新見能登守とする。もと備中国新見城主であった新見親員が明応年中(1492−1501)小堀村に移り、その子春信が当城を築城。始め大内氏に、後毛利氏に従ったと伝える。

 同時代の史料としては、毛利元就・隆元父子と毛利家傘下に入った備後国衆16人が、軍勢狼藉の停止など軍規厳守を誓約した弘治3年(1557)の「毛利氏親類衆年寄衆并家人連署起請文案」(毛利家文書)に新見能登守元政の名が見える。また天正末年の成立と見られる「八箇国御時代分限帳」では新見惣左衛門が備後国神怒(甲奴)郡に175石の給地を持つことが確認出来る。

 主郭はかなり大規模で長辺50m短辺30mほど。ここから南東に向け6段の曲輪が小さな段差で階段状に連なる、いわゆる連郭式の山城だ。

 城の背後に連なる尾根に対しては三重堀切、主郭堀切面には土塁を備える。主郭東下方の腰曲輪でも北端に土塁を設けて堀切面を固めており、この土塁は主郭とを結ぶ通路ともなっているようだ。腰曲輪の南端側では竪堀が穿たれており、主郭と並び丁寧な防御施設を施した曲輪となっている。

 

 小堀にはもう1ヵ所、平田城と呼ぶ城跡が残る。三見城の西方1km、上下川の川筋に向けて張り出した低い尾根の先端にある。城はわずかな段差で2段に分かれた主郭と西下方の腰曲輪の二段構え。主郭南側には緩斜面が広がって主郭切岸下まで農地や民家が迫る一方、北側斜面は高度差30m程の急崖となって山裾を流れる小川に落ち込む。城の背後に当たる東側と、北西側にはそれぞれ堀切一条。北西側のものは斜面に大きくを下る竪堀となる。

      

 小堀村の概況を記した安永十年(1781)の「小堀村明細帳」(『上下町史』史料編1)には

 「古城跡壱ケ所御座候、但城主ハ新見能登守と申伝候、只今ハ畑ニ相成居申候」

とある。

 畑となっていたとする記述からすれば、この城は丘陵頂上の三見城ではなく、民家の裏手にある平田城かと思えるのだが、居館程度のものを「古城壱ケ所」と報告するだろうかという疑問が湧く。平田城は三見城の出丸ないし平時の居館という関係にあったのかもしれない。

三見城遠景(平田城から撮影)

参考文献 

 「西備名区」(『備後叢書』東洋書院 1990年)

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第四集 1996年