葛城城 広島県庄原市山内町

標高340m 比高110m

主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群・井戸?

アクセス

 三次市街から庄原方面に向けて国道183号を東へ。庄原市域に入り、道の左側に山内小学校が見えれば、小学校の北西側丘陵上に葛城城がある。南麓に登り口がある。

      

 城の由来について、『芸藩通志』は嘉暦年間(1326~29)葛城刑部永義が葛城山に鎮座していた山王社(現在の日吉神社)を現在地に移し、城を築いたとする。また「近郷古事漫筆」(『庄原市史』所収)では、山内通資が家臣江木和泉守に命じて葛城山に陣城を築かせたとするが、築城時期や山王社を移転させて築城したという点は同内容だ。しかし葛城氏・江木氏に関しては詳細不明。

 

 葛城城は山内氏の本拠甲山城の南西2.5km、標高340mの丘陵上に築かれている。1郭は丘頂に位置する曲輪だが、城の背後に連なる尾根、東に派生する尾根のいずれにも堀切は見られず、ごく簡素な造り。一方、2郭は背後に二重堀切、西斜面にはこれに連続して畝状竪堀群を築き、堀切面には土塁を備えて背後への備えを固めるから、これが主郭にあたる。1郭から南へもう2段の曲輪が連なり、その下方には堀切が刻まれる。

 山内氏本拠の甲山城では、堀切・竪堀はごくわずかに使われるだけだが、山内領の境界に面した城では堀切や竪堀群で防御を固めた城が見られる。当城近辺で言えば、南1kmにある向城(庄原市平和町)が横堀と畝状竪堀群で厳重に防御された城となっており、葛城城とともに山内領の西端に備えた城だったものと思われる。

 当城西方には、大永7年(1527)尼子軍と大内・毛利軍の間で戦われた細沢山合戦の舞台となった和知があって、当城からはこの戦いで両軍が陣営を置いた南山城・陣山城・茶臼山城・国広山城が一望の下に見渡せる。

 妄想に過ぎないのだが、神社を移転させてまでこの山に築城したという伝承は、ここが和知一帯に眺望の得られる重要な場所だったからなのかもしれない。向城と共に細沢山合戦に関連した城であった可能性がある。

 

参考文献

 庄原市史編纂委員会『庄原市史』 1980年

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 「西備名区」(『備後叢書』東洋書院 1990年)