茶臼山城・秋国城  広島県庄原市川北町

秋国城  標高380m 比髙80m  

茶臼山城 標高370m、比髙80m

主な遺構 土塁・堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 庄原市街から国道432号を北へ。やがて西城方面に向かう県道445号の分岐がある。右折してこの県道に入るとすぐ、左手に迫る尾根に三角城、谷を一つ挟んでその隣の尾根先端に茶臼城がある。秋国城は茶臼山城から北へ、尾根伝いに進めばいい。   

       

   

 秋国城は尾根を遮断する堀切と堀切面の土塁という組み合わせが2カ所に残るだけの城で、これをもって最低限の防御空間としたということらしい。堀切に隣接して切岸を造成した痕跡がわずかに認められるのだが、尾根上に広がる緩斜面を曲輪として整形しようとした形跡はみられない。城名は北麓の地名秋国による呼び名のようだ。

 ここから200mほど南、南麓の谷間を見下ろす小さなピークに茶臼山城がある。秋国城とは対照的に単郭・環濠型の厳重な構えを見せる城だ。曲輪の削平はごくわずかで自然地形を残すが、曲輪の周囲は急角度に加工されて高さ4m前後の切岸となる。

 城の背後に当たる北側には堀切が刻まれ、その両端が竪堀となって下方斜面に伸びる。この堀切につながる横堀が西斜面を巡り、横堀から4基の竪堀が分岐する。東斜面側にも二基の竪堀があって、曲輪の周囲は合計8基の竪堀で防御されている。

 茶臼山城の縄張りは、天文22年(1553)荻瀬の戦いで尼子軍の築いた陣城の一つと思われる御所陣城(庄原市口和町、下図)と瓜二つだ。この両城も一時的な軍事拠点として築かれたものと思われる。

           

 秋国・茶臼山の両城は江戸期の地誌に載らず、その由来は不明だが、大永7年(1527)の和知細沢山合戦以降、繰り返し備北各地に進出していた尼子軍によって築かれたものかもしれない。

 尼子氏が山内(山内氏の本拠甲山城のある本郷の周辺一帯の呼び名。両城のある川北を含む)に進攻したのは二度。1回目は天文年間の初め頃。尼子晴久が、塩冶興久をかくまった山内氏を攻めて山内氏の当主を交替させている。

 2回目は天文22年のことだ。この年、旗返城に拠る江田氏が大内方から尼子方に一味したことをきっかけに、尼子晴久が大軍を率いて南下、先陣は山内に達している。この年5月の荻瀬の戦いののち、尼子晴久は軍を再び山内に移している。

 

 茶臼山城の南西300m、低丘陵の先端には三角城がある。こちらは江戸期の地誌に載る城で、山内氏の家臣安藤藤左衛門(安東左衛門とも)が守備した城だという。秋国・茶臼山の両城とは異なり、整った姿の城となっている。

     

             三角城(庄原市川北町

参考文献

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第4集 1996年

 田村哲夫校訂『新裁軍記』 マツノ書店 1993年

 芸備郷土史刊行会『芸藩通志』 1973年 

 竹内理三編『角川日本地名大辞典』34広島県  角川書店 1987年