若山城 周南市夜市・福川

標高217m、比髙200m

主な遺構:石垣・土塁・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 周南市街から国道2号バイパスを西へ進んで行けば、道路右手に若山城入り口を示す指示板がある。ただ中央分離帯があって右折できないから通り過ぎて折り返すことになる。登り口から山頂まで車道が延びており、車道終点の駐車場は既に城内だ。

        

 若山城は大内氏重臣陶氏が本拠とした城だった。城は標高217mの若山にあり、山頂からは眼下に山陽道の道筋をとらえ、さらに徳山湾から瀬戸内対岸の国東半島にかけて眺望が広がる。

 城跡に設置された案内板によれば、若山城は文明2年(1470)陶弘護が石見国津和野の吉見氏の進攻に備えて築城されたという。

 弘治元年(1555)の厳島合戦で、陶晴賢が毛利軍に敗れて自刃すると、本拠城である若山城は大内家臣の杉氏によって攻撃される。晴賢の死後、家督を継いでいた長房は城を脱出したものの、追撃を受けて自害し、陶総領家は滅亡する。

 

 城の遺構は東西450mに渡って広がる。陶氏の本拠にふさわしい規模の城だ。

 東西に伸びる尾根に配置された曲輪は、最大のものが東端の「三の丸」で長辺55m最大幅28m程度、これに次ぐのが西端の蔵屋敷で、長辺60m最大幅20mほどと、規模の大きい曲輪が目立つのだが、一方、ごく小規模な曲輪が多数見られるのも特徴の一つだ。

 主郭(「本丸」)の東西両側などに見られる階段状の小平坦面は「だんとこ(壇床)」と呼ばれていた。主郭東側のものは幅1~7m、長さ10~20m程度の歪んだ三日月形。これが1~3m程度の段差で12段も連続するものは、陣城の類いの城以外では見たことがない。

 道は現在の車道終点の「二ノ丸」から小郭群の脇を抜けて主郭下の横堀へ。この横堀から本丸へ登る道がつけられている。道はさらに本丸西側の小郭群を経て西尾根の西の丸の脇を犬走り状に抜け、蔵屋敷に向かう。

 

 この城一番の見所は、主郭北斜面から階段状に連なる小郭下にかけて築かれた26基の畝状竪堀群だ。地元では「いもうね」と呼ばれていたという。この竪堀群のうち、主郭切岸下の横堀から発生するものが4基、続いて小郭下にかけての11基が竪堀型、東寄りの11基は再び上端の横堀から発生する土塁型となる。

 この畝状竪堀群を除けば、堀切・竪堀はわずかにみられるだけだ。主郭の北に延びる尾根(縄張り図の a)は、背後の丘陵につながる尾根だが、ここに明瞭な堀切は確認出来ないし、東西に伸びる尾根では、西端に堀切・竪堀が各一基みられるだけだ。東端では車道の建設によって不明瞭となっている。

主郭下の横堀

主郭下の横堀から発生する畝状竪堀群

 当城は急峻な山の頂上に築かれた城だから、尾根筋にもれなく堀切・竪堀を刻んで防御を固める必要がなかったのかもしれない。では北斜面にこれだけの規模の畝状竪堀群を築いたのは、どの時点だったのだろう。

 周防・長門両国、現在の山口県は、太内氏の支配下にあって安定していたはずだから、畝状竪堀群のような斜面の防御施設が築かれるのは、その支配が不安定になる時期、陶氏が大内義隆を倒して太内氏の実権を握った天文19年(1550)とか、天文23年(1554)大内義長・陶晴賢に対して毛利氏が断交した「防芸引分」から毛利軍の防長進攻の時期が考えられるのだが、はたして。

「西の丸」の石垣

参考文献

 新南陽市教育委員会徳山市教育委員会『若山城址調査報告書』 1975年

 山口県山口県史 通史編 中世』 2012年

 周南市HP「若山城跡」