溝迫(みぞがさこ)城  広島県廿日市市峠

別名 ヒノカケ城

標高335m 比高60m

主な遺構 堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 廿日市市街から県道30号を西へ。明石峠を越え玖島分かれ交差点まで進めば、左手の川に迫る丘陵が見える。溝迫城はこの丘にある。友和小学校前の橋を渡り、玖島川南方の小さな住宅団地へ向かう。団地への坂道にさしかかるところ、左手谷筋に見える山道を登る。

        

 

溝迫城

 天文23年大内・陶氏に反旗を飜した毛利元就は、翌弘治元年10月1日の厳島合戦で陶軍を破り、以後防長両国へと進攻していく。両軍の戦いはすでに天文23年5月に始まっており、6月5日毛利軍は陶氏の派遣した部隊を明石口で破り(「折敷畑の戦い」)、さらに山里(廿日市市佐伯町から広島市佐伯区湯来町一帯)に進攻。「山里要害」を築いて城番を配置している。

 山里での戦いは翌弘治元年にかけて続く。年不詳9月1日付毛利隆元・元就連署書状に「山里表敵方よりも一城取付、此方新城へ切々相動の由」(『萩藩閥閲録』巻40)とあり、山里では敵方も城を築き、毛利方「新城」への攻撃が繰り返されていた。戦いは厳島合戦直後の10月4日、陶方が拠点としていた勝成山城から陶軍が退去して終わりをつげる(『萩藩閥閲録』巻92)。

 山里の戦いで毛利軍の築いた「山里要害」は溝迫城の西方2kmにある中山城とされる。東方には同じく毛利軍の拠点となった狼倉城があるのだが、溝迫城については『芸藩通志』は「峠村にあり」と記すのみで由来は不明だ。    

 

 溝迫城は玖島川沿いの低丘陵に載る曲輪一つだけの小さな城だ。曲輪の規模は南北30m、東西20mほど。小規模ながら曲輪を囲む切岸は急斜面に加工され、北に延びる尾根は三重堀切、南尾根には二重堀切で丁寧に遮断されている。

 注目されるのは、南側の二重堀切に隣接して築かれた畝状竪堀群である。この竪堀群は切岸下に刻まれた横堀から発生しているから、竪堀というより土塁が斜面を下る形を呈する。なお、ここの堀切・竪堀群は山道の建設によって一部破壊されてしまった。

 当城に見られる畝状空堀群は、中国地方では毛利勢が多用した防御施設であり、安芸・備後両国(広島県内)では130カ所を越える城にその遺構が確認される。ところが安芸国西部ではごくわずかな例が見られるだけで、溝迫城以西に畝状竪堀群を持つ城は存在しない。

 また、安芸国西部では三重以上の連続堀切を備えた城もごくわずかであり、溝迫・中山・狼倉の三城はその数少ない例だから、溝迫城も山里の戦いに際し毛利勢によって築かれたものと思われる。

 

 当城の東方標高618mの山頂に位置する狼倉城は「房顕覚書」に「陶尾張守山里黒滝ニ在陣、此方ニハ狼か蔵ヲ要害ニコシラヘ迎城ニセラルゝ」とあるように、毛利勢の築いた陣城なのだが、遺構の状況は少し異なる。

 城は明石峠を見下ろす急峻な岩山に築かれており、尾根続きの東西両端は連続堀切で丁寧に遮断するのだが、曲輪は尾根筋をわずかに削平しただけの不整形・小規模な曲輪の連なる城となっている。(下図)。

狼倉城(廿日市市佐伯町峠・永原)

 〇印が狼倉山城、溝迫城は右寄りの低丘陵中にある(中山城から撮影)

参考文献

 「房顕覚書」  『広島県史』古代中世資料編Ⅲ 1978年

  秋山伸隆「戦国の合戦と中山城跡」廿日市市友和市民センターでの講演資料 2008年  

  山口県文書館『萩藩閥閲録』  マツノ書店  1995年

  郷土史刊行会『芸藩通志』1973年