別名 比丘尼城
標高150m 比髙50m
主な遺構:土塁・堀切・竪堀
アクセス
美作市林野から吉野川沿いの国道179号を東へ。美作平福郵便局を過ぎて右折。吉野川対岸の山口集落に向かう。比丘尼城は集落の北方低丘陵上にある。山道は消えているから、歩きやすいところを選んで登ることになる。
城は山口集落の背後、比高50mほどの緩やかな丘陵上に築かれている。城の遺構は中央部の堀切によって東西に分かれる。堀切東側の1・2郭はいずれも削平不十分で、周辺部に向けて緩やかに傾斜している。
2郭東側の尾根続きにはうっすらと堀切が刻まれており、堀切面は高さ2mほどの切岸と土塁でしっかりと防御しているのだが、南辺に回り込むと次第に切岸は不明瞭となり、緩斜面の広がる南尾根への備えは放置している状態だ。
中央堀切の西側には3郭以下三段の曲輪が連なり、1郭とは堀切に架けた土橋状の通路で結ばれる。西端の曲輪では西辺に土塁を構え、土塁脇には虎口が開かれる。ここから西に延びる尾根でもなだらかな斜面が続くが、土塁外壁下に堀切は刻まれていない。
一般に緩斜面の広がる丘陵に築城することは、防御面から好ましいものではないはずだ。当城があえてこのような地形を選んでいること、さらに曲輪や切岸の造成が甘いことなどから、立て籠もって防戦する事を意図していないように思われる。
『東作誌』は康正年間(1455-57)に安東千代一丸が居城したと伝える。『美作古城史』では城主を安東左右馬助とし、美作市原の古城(久保木城)と共に安東氏歴代の居城であったと伝えるのだが、上記のような遺構の状況から、当城が在地領主の拠点として継続的に使用された城とは考えにくい。一時的な軍事拠点としての城と思われる。
参考文献
寺坂五夫『美作古城史』 作陽新報社 1977年
正木輝雄 『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年