高土城・茶臼山城  岡山県久米郡美咲町

標高410m 比髙140m    

主な遺構:堀切・土塁・横堀

アクセス

 岡山市北区建部町福渡の北で国道53号を離れ、旭川沿いの道に入る。鶴田郵便局の前から県道70号を北上。峠まで上ってくると道路沿いに境神社がある。ここを右折して「交流館棚田の里 北庄」に向けて進む。左下方にため池が見えたら、城は堰堤の向こうの丘にある。

          

 天正6年(1578)毛利・宇喜多の同盟が崩れ、美作国の南西部垪和郷の垪和(竹内・杉山)氏は毛利方に属したことから、両者の攻防の最前線に位置することになった。毛利軍は深く切れ込んだ旭川の峡谷に妨げられて、竹内・杉山氏に対する支援がままならなかったようだ。天正8年2月以降、高城・鶴田城をはじめとする垪和郷の諸城は宇喜多軍の攻撃を受けて攻め落とされる。

 垪和郷は美作・備前国境を流れる旭川の左岸、標高400m前後の高原上に位置する。下図に垪和郷の広がりを示したが、宇喜多軍との戦いで主戦場となった高城はその南端にあり、高土城は北東側に構えた城ということになる。

 高土城内には「城主杦山為旦 久政」と刻んだ石碑が建つ。『美作古城史』によれば鶴田城主杉山為就の二男為旦が高土城を築いて在城したが、宇喜多軍の攻撃によって落城したと伝わるから、一連の戦いの中で落城したものと見られる。なお杦山為旦は『作陽誌』が城主と伝える竹内友長と同一人物らしい。     

     青字で示した地名が久米郡垪和郷の範囲(『作陽誌』により作成)  

     ▲竹内方の城 ▲宇喜多方の城     (地理院地図(電子国土web)に加筆)

高土城

 高土城は西に延びる尾根に載る小規模な単郭の城だ。主郭の規模は長さ50m、幅15m前後。背後を二重堀切で遮断し、定石通り堀切面に土塁を盛ってはいるものの、曲輪面は削平不十分で緩やかに傾斜するから継続的に使用された城ではなく、上記の戦いに備えて急遽築かれたもののように思える。

 主郭の周囲は高さ3mほどの切岸。その下には平坦面が広がるのだが、下方斜面側に明瞭な切岸が見られないから曲輪ではなく、切岸造成時に発生した平坦面のように思える。主郭北側は背後の堀切が回り込んで横堀となる。

 

 高土城の西方3kmには宇喜多方の陣城と伝わる茶臼山城(美咲町大垪和)がある。城は大垪和郵便局東側の小丘にあって、麓に設置された説明板によると、天正8年4月に宇喜多軍の本陣が置かれたが、それ以前においては垪和氏一族の居城だったという。

 高土城に類似した単郭の城で、曲輪面にはわずかに削平の痕跡があるものの大部分は未加工の斜面。その一方、切岸は急角度に加工されている。北東ー南西に延びる尾根を遮断する堀切は北東側が二重堀切。南西側は切岸下に沿って伸びるから、堀切と言うより横堀と言える。また西側には不明瞭だが、堀切・竪堀も残る。

  

      

                   茶臼山

 

参考文献

 小川博毅『美作垪和郷戦乱記』 吉備人出版 2002年

 『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年

 旭町『旭町誌』 1999年