高城(たかんじょう) 岡山市北区建部町和田南・角石谷 

標高336m 比髙240m 

主な遺構:土塁・井戸・堀切・石垣・畝状竪堀群

アクセス

 建部町福渡から旭川沿いに国道53号、次いで県道30号を進む。やがて県道70号の分岐がある。旭川から離れて狭い谷間の県道70号を進むこと1km、現れたT字路を左折し一層狭い谷間の県道451号に入る。この道が高原上の集落和田南に向かう道だ。和田南に入った所から尾根伝いの道を南下する。「ヨセジロ」は道の右手の小ピークにある。高城はさらに500mほど先。

         

 城のある和田南は南が備前・美作の国境となる旭川に面し、旭川とその支流によって深い峡谷の刻まれた吉備高原上に位置する。高城をはじめ、この地を拠点とした竹内氏の諸城は峡谷を見下ろす尾根先端部に築かれている。

 高城は三方を急崖に囲まれているから、城への道は北側から伸びる尾根伝いの道しかない。従って城の構えはこの尾根筋を強く意識したものとなっている。城の背後に続く尾根はまず三重堀切、さらに北斜面側に下ろされた四基の竪堀群で厳重に防御されている。東斜面側は土取りの跡らしい不規則な起伏地となっており、築かれていた堀切や竪堀が破壊された可能性がある。

 これらの堀切・竪堀群を見下ろす位置にある1・2郭は北辺を土塁で囲み、丁寧に整形された急峻な切岸で防御される。また2郭下方の3郭は全周土塁囲み、その下方の4郭も北辺に土塁を盛る。

 尾根伝いに進んできた道は堀切群を越えて2郭下を進み、やがて折り返して3郭の虎口に入る。虎口部は上方の2郭から伸びてきた土塁が覆い隠しているから、侵攻する敵は攻め口を見つけられないまま、上方の曲輪からの攻撃を受け続けることになるはずだ。

 1郭の南辺でも急峻な切岸と堀切 aを刻んで防御し、ここから西に派生する尾根の基部にも堀切bを入れて丁寧に遮断している。その一方、堀切aから南へ伸びる尾根に小規模な三段の曲輪が連なるのだが、ここに土塁は見られないし、南端の5郭では切岸が不明瞭で、下方に堀切すら築かれていない。

 東尾根でも4郭下方に堀切は無く、北斜面に下ろした竪堀が残るに過ぎない。城はよじ登ることも難しい急崖の山に載るから、谷側からの攻撃はあまり考慮していなかったようだ。登城路のある北尾根に対する防御を格別重視した様子が窺える。

 高城の主は『作陽誌』によれば、鶴田城主芳賀(垪和)為長の子竹内為能という。天正6年(1578)、毛利・宇喜多の同盟が崩れ、美作国南部の垪和郷を拠点とした竹内氏とその一族は宇喜多方の勢力圏に隣接していたことから、両者の攻防の第一線となり、天正8年2月以降宇喜多軍による攻撃が始まった。

 竹内為能は同族の杉山氏らと共に高城・鶴田城などに籠城。輝元はその報せが入ると直ちに庄・多治部・石蟹といった備中の国衆を援軍として送り込み、検使として毛利の部将庄原元泰を派遣している(美作古簡集註解)。

 しかし、毛利氏による支援は深く切れ込んだ旭川の峡谷に阻まれて困難を極めたようだ。毛利輝元重臣口羽通良は4月3日付の書状で、高城への通路には敵城が3・4ヶ所あり、旭川渡し口の妙見山には敵軍が籠もっていて、高城への支援が困難であると報告している(毛利家文書)。

 5月5日には竹内久盛の籠もる一の瀬城(美咲町)が陥落。それ以降、竹内氏の城は宇喜多軍によって順次攻略され、8月には高城が陥落して竹内氏は滅亡する。タブーを伴う落城伝説は岡山県のあちこちにあるのだが、一の瀬城の地元では陥落の日である端午の節句は祝わなかったと言い伝える。

 

参考文献

 小川博毅『美作垪和郷戦乱記』 吉備人出版 2002年

 建部町『建部町史』地区誌編    1991年 

 寺坂五夫『美作古城史』作陽新報社 1977年