別名 城山城 一色山城 大井出城
標高160m 比髙10m
主な遺構:横堀
アクセス
中国自動車道北房IC入口から備中川沿いの国道313号を東へ4kmほど進み、美川橋南詰交差点を左折。備中川北岸の一色集落に向かう。中村城は集落の東寄り、北から突き出した低丘陵先端にある。
城は備中川に向けて突き出した低丘陵の先端に築かれている。比髙は南麓との間で10m。ゆがんだ台形を呈する曲輪は南北35m東西45mほどの規模。1mの段差で上下二段に分かれるが、方形居館のプランと見られる。
意外なのは空堀の位置である。丘陵先端に構えた居館では堀切は背後の丘陵を遮断するものだが、本城ではまるで逆だ。
曲輪の東側から南側にかけて、麓の平地を見下ろす位置に深さ4~5mの横堀が巡らされている一方、背面は高さ4m程度の切岸となるだけで、切岸下に明瞭な堀切は確認できない。わずかに堀切の一部かと思われる窪みが北西隅にみられるだけだ。主郭背面に土塁も確認できないから、後世の耕地化によって原状を失っているのかもしれない。
『美作古城史』は、城主として三輪与三兵衛(与総兵衛とも)の名を伝える。『萩藩閥閲録』巻57には、三輪与三兵衛宛の毛利輝元書状数通が収められており、その内容から与三兵衛は天正の頃毛利の部将として各地で活動していることがわかる。
三輪氏はもと七尾城(島根県益田市)に拠った益田氏の家臣であり、与三兵衛が毛利軍に属して活動するのは益田氏が毛利に従った弘治3年(1557)以降のことであろう。与三兵衛は当城の東方3kmにある真木ヶ城にも一時期居城したと伝えるから、天正期毛利による美作侵攻の中でこの地に配置されていたものと思われる。
伝承される城主名は、地元になじみのある人物であることが多いのだが、侵攻してきた毛利の部将名が伝えられるのは珍しいケースといえる。
参考文献
寺坂五夫 『美作古城史』 作陽新報社 1977年
落合町史編纂委員会『落合町史』 地区誌編 1999年