福山城 岡山県加賀郡吉備中央町加茂市場

標高366m 比髙160m     

主な遺構:土塁・石積み・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 加茂市場の総社宮から東方に見上げる山が福山城だ。総社宮から南東へ進み福山城背後の高原を目指す。登り切ったところの分岐を左折し木ノ実集落に向かう。木ノ実から再度左へ。未舗装だが軽トラックなら何とか進入できる道が城跡までつけられている。城跡は城山公園として整備されている。 

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 福山城は文亀2年(1502)松田氏の家臣高見源右衛門が築城し、天正の頃城主は伊賀兵庫と伝えられる(加茂川の山城)。

 城は加茂総社宮のある加茂市場を見下ろす丘陵上にある。西麓の加茂市場は備中高梁から竹庄へをへて宇甘川沿いに下り金川に至る東西の道と、伯耆大山に向かう大山道が交差する交通の要地であった。これに加え、備中との国境に前にした城だから、伊賀氏にとって本拠地虎倉城に次ぐ重要な拠点城郭であったものと思われる。

 天正7年(1579)、毛利と同盟を結んでいた宇喜多氏の織田方帰属が明らかになり、毛利軍は美作・備前への攻勢を強める。この年12月には毛利・吉川・小早川の大軍が備中中部に終結。翌8年に入ると毛利軍は美作大寺畑城の攻撃に取りかかると共に、備前加茂に進出。宇喜多方に属する伊賀氏の攻撃を始める。

 毛利の攻撃を受けて伊賀氏は一族の守る福山城を開けて退却したことから、毛利輝元はこれを改修して新たな拠点とすることを決定し、赤川元秀や桂源右衞門尉に在番を命じている(桂及圓覚書・閥閲録巻32)。天正8年4月13日、輝元の近習からなる攻撃軍が虎倉城攻撃に向かうのだが、伊賀軍の襲撃を受けて大将の粟屋元信が討ち死にするなど大敗北を喫して潰走する。

 その後毛利は福山城を棄て、加茂市場の北方に新たな拠点として勝山城を築く。「福山は敵の方より差出たる山にて、しかも此方より渡りむつかしき小川候」(桂岌園覚書)、つまり福山城を放棄したのは伊賀方の勢力圏である宇甘川の対岸にある山だからという。しかし毛利方にとっては敵勢力圏に確保した橋頭堡であったはずだ。放棄したのは敗戦後の不利な軍事情勢の中で城を維持出来なかったためと思われる。

 

 城の規模は長辺300m短辺240m。伊賀領内では虎倉城に匹敵する規模を持つ。城内は公園として整備されており、遊歩道が主郭(1郭)まで伸ばされて、遺構の一部が破壊されている。

 初めてこの城を訪れたときは東側からの車道を利用したのだが、終点の駐車場(2郭)が既に城内であることに気づき、意外な気持ちになったものだ。2郭に至る道沿いには土塁・空堀といった防御施設が見えなかったからだ。

 2郭東側には主郭とほぼ同高度の丘があり、ここに3郭をはじめ数ヶ所の不明瞭な小削平地及び二重堀切が築かれて、背後の備えとなっていたのだが、城の西側斜面に比べればごく貧弱なものに止まる。背後の高原に繋がる尾根を手薄なまま放置したのは、高原側が伊賀氏の勢力圏だったからなのだろうか。

 主郭の周囲に発生する3本の支尾根にはいずれも階段状に曲輪が配置される。南に伸びる二本の尾根のうち、東側の尾根では5郭に石積みが残り、その下方には畝状竪堀群Aが築かれている。この竪堀群は尾根筋を遮断する堀切に替わるもので、放射型の竪堀群となる。

 この二つの尾根に挟まれた畝状竪堀群Bは谷間に築かれた形となっている。その思いがけない位置に驚くが、4郭の載る尾根の基部を遮断する堀切に注目すれば、堀切に隣接する竪堀群といえる。北西尾根のCも同じく堀切隣接型のものだ。

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福山城全景(加茂市場側から撮影)

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2郭

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2郭東端の石垣

参考文献

  加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年