日山城 広島県山県郡北広島町新庄

別名:日野山城・火野山城

主な遺構 石垣・石塁・土塁

標高705m 比髙290m

アクセス

 北広島町の中心街有田から新庄へ向け、国道261号を北へ5kmほど進むと中山峠がある。峠を越えるとすぐ道の左手に日野山城の案内板がある。ここを左折して上っていくと駐車場がある。ここから山頂まで約40分の道のりだ。

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日山城縄張図(登り口の案内板を撮影)

 日山城は毛利元就の次男元春が吉川氏の家督を相続し、天文19年(1550)入城して以降、広家が天正19年(1591)出雲国富田城に移るまでの間、吉川氏の本拠城だった。城は元春の相続以前から存在していたが、大規模な修築は元春以降のことであり、永禄10年(1567)頃一応の竣工をみたようだ。

 城の規模は東西640m南北450m。戦国大名の本拠にふさわしい堂々とした戦国期山城だ。城の麓には吉川元春館跡などの遺跡があり、火野山山中には山頂の曲輪群・中城地区の曲輪群・南方の谷間にある浄必寺曲輪群などが残る。

 久しぶりに城を訪れてみると所々に案内板が設置され、訪問者のための駐車場が整備されていた。東麓の登城口に位置する中山は日山城下の市町で、様々な業種の商店や職人が店を構えていたという。

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中山

 「竪小路」と呼ばれる中山からの登城路は、やがて沢沿いの踏み跡程度の道に変わる。下写真のように切れこんだ谷間に道が伸びているから、増水時は歩けなくなりそうだ。

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沢沿いの登城道

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日山城縄張図(部分)

 登城路は中城を経由して、城の中核部入口に当たる大門の原(縄張図10)に入る。急坂を登った所の大門の原は、その名のように大きな門を構えた大手口だったようだ。大門の原の脇にある姫路丸(縄張図11)は急坂の登城路を真上から見下す位置を占めており、虎口防御の要となっている。

 大門の原北側の浅い谷間に「一升水」(縄張図カ)の名が残る。その由来は「平常一升汲めばまた一升溜まりて絶ゆることなしとの目出度き名なり」という。また城の西方、船峠から用水一荷を城に担ぎ上げれば一匁の報奨金が与えられたことから、ここに「一匁水」の名が残るという(『広島県山県郡史の研究』)。

 城内には明瞭な井戸跡が確認されていないから、これらの伝承は城内で水不足による苦労があったことを暗示しているように思える。

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大門の原。右手に姫路丸、奥は中ノ丸方面

 大門の原からさらに進んで行くと大広間の段(池の段、縄張図14)に入る。ここは左は二ノ丸(縄張図12)、右を中ノ丸(縄張図19)曲輪群に挟まれた谷間に位置しており、正面は中ノ丸と二の丸を結ぶ通路を兼ねた巨大な土塁がふさぐ。

 二ノ丸(縄張図12)は大手口である大門の原から大広間の段に至るルートを見下ろし、南側には向中城(縄張図2)や中城地区を俯瞰するから、姫路丸と共に大手道防御の要衝をなす。曲輪の延長は100mほど。曲輪の削平はやや甘く、東に向けて緩やかに傾斜する。

 大広間の段から北側に見上げる中ノ丸曲輪群は曲輪の形が矩形に整えられ、石垣が多用されるなど、本城内では最も丁寧に普請されたところ。道はここから最後の関門となる小郭群を経由して本丸に入る。

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大広間の段(池の段)。奥に二ノ丸と中ノ丸を結ぶ土塁が見える

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17郭の石垣

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本丸

 本丸は小さな段差で4区画に分かれる。私が初めて城を訪れたのは50年ほど前。その頃本丸一帯は雑木林が広がって、ひっそりとした雰囲気が心地よかったのだが、立木が伐採されてしまった。山頂からの眺望を良くするためなのか、また史跡指定との関係があったのだろうか。残念なことに今はカヤやイバラの密生した荒れ地となっている。

 継続的に下草刈りできる目途があるなら別だが、私は基本的に伐採に反対。せめて皆伐は避けるべきだ。日差しの強い時期には日陰もつくってくれるし、下草の繁茂も押さえられるはずだ。

 本丸から南北に伸びる2つの尾根上にも曲輪群が配置されるが、曲輪の先に堀切や竪堀は確認出来ない。それどころか、本城では竪堀・横堀・堀切といった空堀が全く築かれていないのは驚きだ。安芸国北西部の吉川領内でみても、堀切や横堀はあるが畝状竪堀群のような発達した竪堀群は見られない。吉川氏の築城手法の特徴なのだろうか。

 

参考文献

 吉川氏城館跡保存管理三町連絡協議会 『史跡吉川氏城館跡』 1990年

 名田富太郎 『広島県山県郡史の研究』1952年

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書」第1集 1993年