岩国城 山口県岩国市横山三丁目

標高210m 比髙200m  

主な遺構:石垣・枡形虎口・井戸・堀切・横堀・竪堀

アクセス

 岩国の名勝錦帯橋を渡れば吉香公園がある。公園裏手に岩国城ロープウェーがあるからこれを使えば楽勝。歩いて登るなら、ロープウェー山麓駅裏手の白山比咩神社脇から登る徒歩道(案内図に見える破線の道)がある。

       

 当ブログでは広島・岡山の両県を中心に中世の土の城を取り上げ紹介しているが、たまには整備された近世の石垣の城を歩くのもいい。荒れ果てた藪に突進しなくて済むし、ちょっとした気分転換ということで山口県岩国市の岩国城を訪ねた。

 

 岩国城吉川広家が慶長13年(1608)に築いた城で、広家は、毛利元就の次男で吉川家を相続した吉川元春の子である。

 関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を防長二国に削減され、広島城から萩城に移ることになった。その折吉川広家米子城から岩国に移り岩国城を築くのだが、元和元年(1615)の一国一城令により、築城のわずか7年後に取り壊され、石垣も多くは崩されている。

 城は山麓の「御土居」と山頂部の「要害」からなる。下図は山頂部の遺構について作成したのだが、遺構はさらに中腹にかけて広がる。この図には載らないが、御土居から大手門に至る登城道沿いには2カ所の曲輪があるし、西斜面側にもさらにいくつもの曲輪があるようだ。

                 岩国城(主要部)

 

 城の中核部は総石垣造り。大手門など要所に枡形虎口が採用されるなど、織豊系の築城技術が採用されており、吉川氏が安芸国内で築いていた城とはまるで異質な城となっている。

 眼下に錦川を見下ろす位置にある大手門と本丸虎口(図中 a )は枡形虎口。大手門に入らず石垣下を直進すると北ノ丸南側の虎口( b )がある。「御城本丸図」によるとこれも枡形虎口のようだが、現状は単純な坂虎口に見える。破壊された結果なのかもしれない。

 bから北ノ丸に入ると、本丸との間には空堀が刻まれており、空堀南端にはコンクリート橋(c)が架かる。「御城本丸図」とは異なるのだが、ここに木橋が架けられていたとすれば、橋の正面にある基壇はこれに備えた櫓台といえる。

 西斜面側では石垣がかなり崩されて不明瞭となっているが、dも虎口の一つらしい。

 城の南側尾根続きの部分には堀切が刻まれているし、西斜面側には竪堀も残る。また周辺部の曲輪には石垣を積んでいないものが見られるなど、中世山城の雰囲気を残す城となっている。

 

「御城本丸図」(部分、岩国徴古館所蔵) 赤字・赤丸は加筆したもの

 南麓にある御土居

 

 

大手門。右手石垣の上が本丸

天守台。発掘調査の上、崩されていた石垣を復元している

 

 麓から見えやすい位置に復元された天守

 

空堀に架かるコンクリート

 

         

     南西側の谷間に残る「大釣井」。この谷を下れば「小釣井」があるらしい

 

参考文献

 岩国徴古館所蔵「御城本丸図」

 山口県山口県史』資料編 考古2  2004年

「おもしろ山口学」(webサイト「山口県魅力発信サイト きらりんく」)