二ツ山城 広島県三次市和知町

標高382m 比髙180m  

主な遺構:土塁・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 三次から国道183号を庄原方面へ向かう。道が中国縦貫道の高架下を抜けるとすぐ左折し、狭い舗装道路を北西に進む。山裾についたら、その先は案内図に見える破線の徒歩道を登るが、道は荒れている。

   

 二ツ山城は三次市和知町の北端、庄原市境にある。『芸藩通志』の和知村絵図には「古城跡 二ツ山」が見え、城墟欄では次のように記している。

 国広山 和知村にあり、一に二川山ともいふ、初め国広石見が所居、のち和知実方より七世これに居る

 

 二ツ山城は国広山城とも呼び、和智(和知)氏代々の居城であった、ということなのだが、困ったことに当城の南方には別の「国広山城」が存在する。

 その上、中国自動車道建設に際して実施された発掘調査によって、和智氏の居城は二つ山城ではなく、その南東にある古城山城とされ(案内図参照)、麓の「土居」に館があったものと考えられている。

 なお和智氏は、鎌倉幕府の成立ののち関東御家人広沢氏がこの地に移住して在地名を名乗ったもので、14世紀後半には吉舎町の南天山城に居城を移している。

 

 二ツ山城は南北2つの曲輪群からなり、全体の規模は東西250m、南北250m程度。北曲輪群は標高382mの山頂を中心に、東西に延びる稜線に沿って小規模で不整形な曲輪が連なる。北西に伸びる尾根の先端には土塁・堀切が築かれている。

 南曲輪群でも状況はほぼ同じで、わずかに削平しただけの不明瞭な曲輪が尾根筋に連なる。その中で注目されるのは東尾根の先端で、二重堀切とこれに並べ築かれた竪堀群がある。3基以上の竪堀が並べ築かれていれば畝状竪堀群と呼ばれるから、不明瞭ながらこれに当てはまるものだ。

 要するに二ツ山城は江戸期の地誌に載るだけの、由来のわからない城なのだが、群小の整形不十分な曲輪が連なることから、戦いに際して急遽築かれた陣城らしく、畝状竪堀群の存在から、16世紀の前半のものと思われる。

二ツ山城縄張図

 16世紀前半といえば、大永7年(1527)中国山地を越えて尼子経久の率いる大軍が備後に来襲し、北上してきた太内・毛利軍との間で戦いが行われている。その中で最大の戦いとなったのが、この年8月9日の「和智細沢山」の戦いである。

 以前当ブログ「国広山城」や「陣山城」を取り上げたの時は、戦いのあった和知町一帯で城の配置を見ていたが、もう少し広い範囲に広げ、下に示す3つのタイプの縄張りに分類してみた。

 ①土塁・空堀で丘頂部を囲むもの 

 ②ごく小規模な曲輪が尾根筋に連なるもの 

 ③その他 

 尼子方の陣城は尼子経久の陣所となったハチヶ壇城のほか、国広山城・南山城があり、大内・毛利方は茶臼山城・陣山城に布陣したとされる(『三次市史』による)。

土塁・空堀で囲い込んだ城も陣城に見られる縄張りだから、図中のほとんどの城がこの戦いに関連した城のように思われる。

 二ツ山城の東にある向城庄原市平和町、北にある岡ノ壇城庄原市水越町は山内氏の領域にある城であり、向城は15世紀末に登場するが、畝状竪堀群を備えていることから16世紀前半にも使用されているようだ。また岡ノ壇城は整地不十分な曲輪を土塁・空堀で囲い込むタイプの城となっている。

なお、図中で畝状竪堀群を備えた城は、二ツ山城・向城・南山城・寺町城の4城である。

       

 

 

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参考文献

芸藩通志』 芸備郷土史行会 1973年 

 長谷川博史「大永七年備後国和智郷細沢山合戦と陣城遺構」(『芸備地方史研究』230号)

 吉舎町教育委員会『和智氏と吉舎町の山城』1984

 三次市史編纂委員会『三次市史』1  2004年

 表 邦男『広島の中世城館を歩く』 渓水社 2021年