有福城  広島県府中市上下町有福

標高525m 比髙130m

主な遺構:土塁・堀切・竪堀

アクセス

 上下の中心街から庄原方面へ向け国道432号を北へ。甲奴分かれ交差点を過ぎると道の正面右手に見える山が有福城だ。城跡を真横に見る位置まで進むと小川に架かる橋がある。これを渡ったところに有福城の案内板があり、山麓の民家脇から山道が延びている。

        

 有福城は南北朝初期の建武3年(1336)、備後国南朝方であった竹内兼幸が挙兵したと伝える城だ。足利尊氏は竹内兼幸の追討を山内氏らに命じている(山内首藤家文書)。

 この戦いののち城がどうなっていたか不明だが、戦国期には尾越氏が有福城に入る。この尾越氏は南天山城(三次市吉舎町)に本拠を置いた和智氏の一族らしく、尾越元貞の代には在地名によって有福姓を名乗っている(『萩藩諸家系譜』)。

 天正2年(1574)備中の三村氏が毛利氏に反旗を飜したことから、三村氏は毛利軍によって攻め滅ぼされる(いわゆる「備中兵乱」)。そののち、有福元貞は毛利輝元の命によって三村一族の居城だった国吉城の二ノ丸を守備、同8年5月からは同族の和智元郷と共に美作寺畑城、さらに翌9年末には同じく美作の宮山城に在番するなど、毛利軍に従って備中・美作の各地に転戦している。 

 その間も有福城は維持されていたようで毛利輝元は「有福要害」の普請と番衆の配置を元貞に命じている(年不詳7月25日付毛利輝元書状、『萩藩閥閲録』巻103)

 

 主郭1は長辺60m短辺20mほどの曲輪で、土塁で囲まれた南端部には横矢掛けを思わせる突起もある。西麓からの登城路がよく残っており、西尾根に構えた2段の曲輪を経て主郭西辺に入る。

 これと向かい合う位置にも虎口があって、北尾根に構えた3段の曲輪を経由する通路が入ってくる。北尾根基部の曲輪では東斜面に下ろした竪堀によって狭められた通路を越えなければ主郭へ向かえないよう工夫されている。

 北尾根をさらに下れば広大な曲輪2と付属する小郭群がある。曲輪の削平はわずかで緩斜面が広がり、明瞭な切岸も一部に止まる。さらに2郭背後を防御する堀切は無く、竪堀が北斜面に下ろされるだけだ。南尾根の曲輪3も同様の状況であって、急崖に守られた中核部との間で際立った対比を見せる。

 主郭から南東に伸びる尾根には浅い鞍部を挟んで4・5郭が構築される。鞍部には堀切が刻まれ、主郭側斜面には竪堀5基が乱雑に築かれている。さらに4郭堀切面には土塁を備えるなど、主郭周囲に派生する稜線の曲輪群の中で最も丁寧な普請となっている。

有福城全景

参考文献

 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』 マツノ書店 1999年

 上下町史編纂委員会『上下町史』通史編 2003年