釜ヶ城   安芸高田市甲田町下小原

別称 釜額城

標高370m 比高160m

主な遺構:土塁・堀切・竪堀

アクセス

 JR芸備線吉田口駅西方の丘陵上に釜ヶ城がある。戸島川を渡り、内長見から釜ヶ城のある山の東から北側に回り込む谷に沿って進む。舗装道路が途切れるあたり、左手に突き出す尾根がある。これを登るが、山道は無く藪こぎとなる。

     

釜ヶ城全景

 南北朝の永和2(1376) 年、毛利氏一族の内紛が発生し,毛利元春の子光房が元春の弟直元の籠もる釜額(かまひたい)城を攻め落としている(毛利家文書)。この釜額城が釜ヶ城であるとされ、南北朝期の史料にその名が登場する数少ない城だ。

 江戸中期の『高田郡村々覚書』では、毛利元就に仕えた三上土佐守とその子三上豊後守元安がこの城に住んだとある。

 天文19年(1550)元就は、有力家臣井上元兼の横暴をとがめて誅殺する。この誅伐の前、井上氏一族の井上新三郎という者が三上の姓を与えられ、土佐守を名乗っているから〔藩閥閲録巻128)、釜ヶ城主と伝える三上氏は井上一族らしい。釜ヶ城に入ったのは天文の頃と思われる。

 

   釜ヶ城は毛利氏の本拠郡山城の東約2km、江の川とその支流戸島川に挟まれた丘陵上にある。城からは郡山城のある江の川筋への視界は遮られる一方、戸島川沿いの小丘にある長見山城や中山城、さらに南方約2kmにある塩屋城など、戸島川上流域の谷筋に大きく視界が広がる。

 城は山頂部の主郭(1)を中心とする山頂曲輪群と,空堀(a)を挟んで東側に広がる東曲輪群に大きく分けられる。山頂曲輪群の外周は高さ6 ~10m程度のよく整えられた切岸となり、1郭から両隣の郭にかけて、北辺が延長40メートルにわたって土塁で囲まれる。1郭南側には腰曲輪が3段構えに配置されており、南麓からの登城路が本城最大の3郭に入る。

主郭北辺、折の入った土塁

 1郭から南北に派生する尾根では、それぞれ先端の曲輪の下方に堀切を入れて遮断し(b・c)、山腹に回り込んだ所にも竪堀を備える。また、中核部の曲輪は鋭く急傾斜に立ち上がる切岸で囲まれており、2郭西辺にも土塁を備えていることなど、実にしっかりした造りの城なのだが、何故か城の西斜面側では切岸下に自然の緩斜面が放置されたままとなっている。

 ここは背後の丘陵につながる尾根なのだが、1郭一帯の厳重な構えと対照的に、堀切すら確認できないのは不可解だ。あるいは後世の破壊によるものだろうか。

 東曲輪群では甘い普請の小郭が小さな段差で階段状に連なる。切岸も極めて不明瞭だし、未加工の緩斜面も残るから、釜額城と呼ばれた築城当初の旧状を止めているものと思われる。その中で、主郭部との間を遮断する堀切 a やその脇の竪堀、北斜面の堀切 d は戦国期の改修を思わせる。

 

参考文献

 岡部忠夫 『萩藩諸家系譜』 琵琶書房 1983年

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 高田郡史編纂委員会『高田郡史』 1972年