藤沢城 岡山県加賀郡吉備中央町加茂市場・田土

別名:狸ケ城

標高340m 比髙140m  

主な遺構:土塁・井戸・堀切・竪堀・竪土塁

アクセス

 吉備中央町役場加茂川庁舎のある下加茂から宇甘川沿いの県道31号を西へ。県道66号の分岐する加茂市場の交差点を過ぎて200mほど、右折して日名集落内に入れば、藤沢城東側中腹の神社(案内図参照)へ向かう車道が延びている。この神社から尾根伝いに登る山道がある。西南麓の仁熊から城跡西方鞍部を経由するルートも使える。                 

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 藤沢城は備前備中国境をなす丘陵上に城があることから、境を接する両国の村にそれぞれ伝承が残る。江戸期の備前国地誌である「東備郡村誌」(「東備」は備前の別称)は「加茂市場村藤沢城址 毛利家の砦なり、天正年中毛利家の将粟屋與十郎これを守る」。

 備中側の「備中府志」では上房郡竹庄の田土村の項に「藤沢城 城主肥田淡路宗房」とある。藤沢城の名は賀陽郡上土田村の項にも見え、「当城は芸州持、城代山縣三郎兵衛尉」とあるが、現在の岡山市北区上土田に藤沢城という遺跡は確認されていない。藤沢城の位置としては田土村が正しいが、「芸州持」とする点では上土田村の記載に分がある。何らかの混同があったようだ。

 また軍記「中国兵乱記」によれば、永禄2年(1559)九月毛利氏が備中の諸将を率いて九州に出兵している留守を窺い、宇喜多勢が竹荘・吉川・中津井に侵攻。対抗して毛利方は備中境目の藤沢に砦を築き、中島加賀守・野山清左衛門ら備中の国衆と毛利から派遣された井上源右衞門(元勝)らを城番に入れたと記すのだが、記述された内容は天正8年(1580)の状況と思われる。

 これらの地誌や軍記から、本城は天正年間毛利方の軍事拠点として築かれたということになるのだが、備中境の押さえとして宇喜多方が築いた城を毛利軍が攻め落とし、虎倉城攻めの拠点としたと記すものもある(吉備温故・虎倉物語)。

 中国兵乱記に名前の見える井上源右衞門は、天正7年(1579)10月から備中国中津井の佐井田城に在番しており、翌8年4月16日「備中(ママ)加茂」で討死したことが確認できるから(藩閥閲録 巻38)、最前線の藤沢城に送り込まれていたようだ。源右衞門の死亡が伝えられた日は、伊賀軍との戦いで粟屋與十郎を大将とする毛利軍が大敗を喫した、いわゆる「加茂崩れ」の直後だから、この戦いによる討死と見られる。

 加茂崩れの後、毛利軍主力は藤沢城から撤退するが、同年5月には佐井田城に在番していた和智主水允が城番に命じられているから、放棄したわけではないようだ(藩閥閲録 巻131).

 藤沢城の東方1km、宇甘川の対岸には伊賀氏の拠点である福山城が築かれていたから、一時期本城は文字通り「向城」(敵の城を攻めるとき、それと相対して築いた城)であったことになる。

 宇甘川の川筋には金川から竹庄をへて高梁に至る金川往来、城の東側には備中南部から伯耆大山へ向かう大山道が抜ける。城麓の加茂市場は二つの古道が交わる交通の要衝でもあったから、藤沢城にはこれらの道筋を監視し確保する役割もあったはずだ。

 

 遺構は上の図でA・B・Cの3カ所に広がる。両備国境に築かれた城だが、正確に言えば標高340mの丘頂に載るAの遺構が国境に、北に延びる尾根上B・Cは備前側に位置する。Aの曲輪群では要所に土塁・竪土塁・堀切を配置しており、最も丁寧に普請されていて、本城の中核をなす。ただ曲輪について言えば、1郭が塁線を直線的に調えて加工度の高さを見せるが、多くは自然地形に規制されて不整形なものに止まる。

 1郭の北側や東尾根の諸郭では、上段の曲輪から下段の曲輪の側面に伸ばされた土塁が諸郭を結ぶ連絡路となる(図中a)。こうした特徴をもつ城は安芸・備後に多数残るが、虎倉城その他伊賀氏領域の諸城さらに備中・美作の範囲でみても例が少ないことから、城は毛利勢によって改修(あるいは築城)されたものと思われる。

 またbの土塁は斜面を下っていく竪土塁で、主郭部東側に入り込んだ谷間の曲輪群の側面を防御するものだ。これも珍しいもので、他には広島県三次市の比熊山城など数例が確認できているだけだ。

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藤沢城(部分)

 1郭から北に延びる尾根に設けた堀切はその先端が三方向に下る竪堀となる。そのうち東へ延びる竪堀が登城路として利用されており、虎口受けの小郭 cをへて虎口に導かれる。この登城路を進攻する敵に対しては上方の曲輪から攻撃が可能であり、堅い守りの虎口となっている。登城路はもう一つ、Aの西側尾根筋にもある。dが虎口で、南北両斜面に下ろした竪堀群で狭められた通路となる。

 一方、B・Cの曲輪群は共に尾根筋をわずかに削平して曲輪を連ねたものであり、天正8年毛利軍による伊賀攻めに際して、兵の臨時的な駐屯スペースとして造成されたものと思われる。

 注目されるのが、B曲輪群の行儀良く並んだ四重堀切eである。北端の1基は一段低い位置に築かれて通常の堀切の姿を見せるのだが、残る3基は既存の曲輪を破壊して造成されたものらしく、空堀に挟まれた3本の土塁部分が、同じ高さの跳び箱を横向きに並べたような姿をみせる。堀切両端は山腹斜面に大きく伸ばされて、その総延長は50mに及ぶ。堀切はこのほか、Bの西尾根、Cの2郭北側にも残る。

 Cの2郭が本城最大の曲輪で、切岸部分が高さ2~3mの壁をなすものの、曲輪面の加工は不十分で北に向かって傾斜する。堀切を挟んで北東に延びる尾根上にも5段の曲輪が並ぶが、何れも土木工事量はわずかなものに止まる。

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四重堀切のうち南端のもの。手前は堀切にはさまれた土塁部分

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四重堀切の東斜面側。堀切が竪堀となって伸びている

参考文献

 加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 賀陽町教育委員会『賀陽町史』  1972年