一本松城   島根県浜田市金城町波佐

別名 波佐城

標高450m 比髙80m

主な遺構:堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス

 浜田市から北広島方面に向かう国道186号を南下。国道左側に波佐郵便局が見えたら、その南方周布川と長田川の合流点に突き出した山に一本松城がある。山麓にある大歳神社の南100mほどの所から谷筋を登るが、道はやがて消え、藪こぎとなる。

           

 広島県境に聳える大佐山から北に延びる支脈の先端、周布川と長田川の合流点に突きだした尾根上に一本松城が築かれている。東麓を流れる長田川に沿って3kmほど遡ると広島県境をなす牓示峠がある。峠の先の安芸国北西部は吉川氏の本領であり、一本松城は七尾城(島根県益田市)を本拠とする益田氏との境目に位置する城だった。

一本松城全景。周布川沿いから撮影

 城の遺構は尾根上に並ぶ1~3郭と付属する小郭、曲輪を取り囲む堀切・竪堀群からなる。主郭(1)は丁寧に削平された城内最大の曲輪で、規模は長辺50m短辺20mほど。周囲の切岸は高さ6~7mで急角度に調えられている。

 一方、本城の最高所を占める2郭は曲輪の肩がだれて縁辺が不明瞭だ。3郭は部分的に削平されてはいるものの普請途上のような姿であり、堀切面を除けば切岸の形成が不十分なまま放置されている。

主郭

主郭北側、aの堀切

 尾根筋を遮断する堀切は合計7本。そのうち1郭両側の堀切(a・b)は1郭切岸下に沿って伸びたのち、その先端が下方斜面に下ろされて竪堀となる。2郭南側の堀切(c)3郭北側の堀切(d)も同様で、いずれも堀切というより横堀に近いものとなっている。

 1・2郭の間ではbの堀切に加えて尾根筋に竪堀が乱雑に刻まれているし、1・3郭の間の四重堀切では中間の堀切2本の堀幅が広くなったり狭くなったり、枝分かれしたり、竪堀群が合流したり。乱雑・不規則な姿を見せる。

 竪堀群について、竪堀の数は合流したり分岐するものがあって数えにくいが、大まかに言えば30本を上回る。なお、堀切の先端が山腹斜面を下っていれば東西両斜面でそれぞれカウントしている。

 西側斜面を下る竪堀9本のうち5本は支尾根に設けた小郭の側面を防御するもので、残りは堀切の延長部分。東斜面側の竪堀20本ほどのうち、いくらか計画的に築かれたと思えるのは1郭東斜面だけ。そのほかは曲輪周囲に広がる緩斜面を潰すことだけを目的に、無計画に掘り刻まれたもののように見える。

 それにしても曲輪の整形には無頓着で、主郭堀切面にすら土塁が築かれていないのにくらべ、曲輪を取り囲む竪堀群の量に驚かされる。防御装置の強化に精力を集中した城であり、『島根県那賀郡金城町内遺跡分布調査報告書Ⅰ』では、陣城あるいはつなぎの城など、外部勢力による改修が指摘されている。

 

 毛利による山陰経略の主力をなしたのは吉川氏である。弘治元年(1555)、毛利元就の命を受けた吉川元春は益田氏の一族である永安・三隅氏を攻撃し、永安氏の本拠矢懸城(浜田市弥栄町)をはじめ数ヶ所の城を攻め落としている(厳島野坂文書・毛利元就卿伝)。

 この前年、毛利元就陶晴賢と断交(「防芸引分」)。翌弘治元年9月の厳島合戦で陶軍を破り、さらに防長両国へ進攻していく。弘治元年2月に始まった吉川軍の石見進攻は、陶氏と結んで反毛利の立場をとる益田氏を牽制するものだった。一本松城は吉川軍の進攻ルートからは外れるようだが、益田・吉川両氏の境目に位置することから、いずれかの勢力によって築城(あるいは改修)されたものと思われる。

 畝状竪堀群に注目して一本松城周辺の状況を見ると、西側の石見国西部では七尾城をはじめとして、発達した畝状竪堀群を備えた城は10数ヵ所を数える。

 東側の安芸・備後両国でも畝状竪堀群を備えた城は130もの数にのぼる。畝状竪堀群を活用した縄張りが毛利系山城の特徴とされているのだが、その分布は安芸国東部から備後国に偏り、吉川氏の本拠である安芸国北西部は畝状竪堀群の空白地域となる。それどころか竪堀の使用自体が少なく、吉川元春の居城日山城に至っては堀切・竪堀といった空堀は一切使われていない。

 本拠地の城と侵攻先に築いた城が類似の縄張りを採用するとは言えないのではあるが、一本松城は吉川氏の手になる城ではないように思える。

 

 

 水見城について

 一本松城は軍事面を重視した城だというのに、背後には標高483mのピークが迫り、ここから城内が見透かされてしまう。このピークからさらに尾根を南に辿ると水見城があって、南方の大井谷から一本松城まで引いた用水路を管理する城だったと伝える。この城が一本松城の背後を固める城なのかもしれないと調べてみた。

 下の縄張図で、曲輪はごく小規模であり、肩がだれて切岸も不明瞭だ。また城の南北両側に残る堀切はわずかに尾根筋を刻むに過ぎないから遮断効果は小さい。いずれにしても一本松城の様相とはかけ離れた素朴な造りの城であり、同時期に同じ勢力によって使用された城とは考えにくい。

 

           

                  水見城

参考文献

 島根県教育委員会『石見の城館跡』1997年 

 金城町教育委員会島根県那賀郡金城町内遺跡分布調査報告書1」1986年

 寺井毅「石見福屋氏の桜尾城・松山城・波佐一本松城の畝状竪堀群についての考察」

                        島根県考古学会誌第8集 1991年

 金城町誌編纂委員会『金城町誌』第6巻 2003年

 三卿伝編纂所『毛利元就卿伝』 マツノ書店 1984