野山城  岡山県加賀郡吉備中央町北

別名 古和田城

標高430m 比髙80m 

主な遺構:土塁・横堀・池?

アクセス 

 道の駅かようの西に見える山に野山城がある。道の駅前の国道484号を西へ、500mほど進むと道路脇に「岡崎嘉平太墓所」の石碑がある。その西側民家脇から登る。

       

 道の駅かようの西方標高608mの大和山(おおわさん)は、山頂からの眺望が広がることからハイキングコースとして親しまれている山だ。野山城はこの大和山から南に延びる尾根上、野山氏の支配した中世野山郷を見渡す標高430mのピークにある。

 丘頂の1郭は長辺35m短辺15mで、北東隅が入り隅となった四角形。この入り隅部分(a)には石垣が築かれているが、ここに祀られていた神社に由来する後世のもののようだ。2郭南辺の土塁脇には文久2年(1862)の銘のある手水鉢も残る。

 1郭全周を囲む2郭は小さな段差のある土塁囲みの曲輪であり、全体として長辺65m短辺40mの規模。虎口は南北両側に残る。南側虎口は土塁の切れ目につけられたもので、左右の塁線をずらし、東側土塁を内側に折り曲げる工夫を凝らした食違い虎口。北側虎口も虎口面に土塁を備えた丁寧な造りとなる。

 2郭の周囲は高さ6~7mの急峻な切岸となり、切岸下には横堀が巡る。この横堀は、丘頂から四方向に発生する尾根を遮断する堀切が切岸下に沿って伸びたものであり、尾根筋を外れた南北両側では幅3~5m程度の平場に変わる。この平場は帯曲輪として整形されたものではなく、切岸形成時に発生したもののように思われる。

 本城は中核部を急峻な切岸と横堀で固めてはいるものの、四方に伸びる尾根を遮断するのはこの横堀以外には無く、横堀外側の緩斜面に竪堀は刻まれていない。従って、本城は丘陵上に営まれた土塁・横堀囲みの城だから、居館を兼ねた館城のように見える。しかし山麓に設置された説明板によると、付近には馬場・的場・尾土井(御土居)・田地下(館の下)などの地名が残るというから、平時の居館は山麓にあったようだ。

 野山城主の野山氏は、鎌倉時代野山庄の地頭として赴任した伊達弾正朝義の末裔という。当初妙本寺南方の丘に居館(「伊達弾正館」)を営んだが、文明15年(1483)本城を築き、これに移ったとされる(山麓の説明板による)。

 天正2年(1574)、 備中松山城主三村元親が毛利氏から離反して織田方についたことから、毛利軍が三村氏討伐のため備中に出兵。いわゆる「備中兵乱」が始まる。

 軍記「備中兵乱記」によれば、毛利の三村討伐軍は備中松山城を攻撃するに先だち、松山城の背後野山平(野山城のある賀陽町北一帯)へ布陣し、野山城や矢倉畦城など三村方の諸城を焼き討ちしたとあるから、戦いの当初野山氏は三村氏に従っていたようだ。ただ三村氏滅亡の後、野山氏には野山城と従来の領地が毛利氏に認められているから、ある時点で毛利方に与したものと思われる。

 天正10年(1582)、備中高松城の戦いで羽柴秀吉に敗れた毛利氏は、高梁川以東を宇喜多氏に割譲し、高梁川を宇喜多・毛利の境界とする条件で秀吉方と講和を結ぶ。

 天正末年、毛利氏は天末年支配下の国々で検地を実施する。これをもとに作成された「八箇国御時代分限帳」によると、高梁川以東の備中賀陽郡(吉備中央町南西部から岡山市総社市の一部)に野山清右衞門の所領1085石があるから、野山氏はこの講和以降も野山の地を維持していたようだ。関ヶ原の戦いののち、野山氏は毛利氏の防長移封に従わず帰農しているから、廃城となるのはこの時のようだ。   

1郭。奥に小さな祠が見える

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2郭。うっすらと土塁が巡る。

主郭 神社跡の石垣

2郭切岸下には摩利支天を祀る祠がある。

参考文献

 岸 浩 『毛利氏八箇国御時代分限帳』マツノ書店  1987年

 賀陽町教育委員会『賀陽町史』 1972年

 吉備郡教育会『吉備郡史』   1937年