小屋の山城  岡山県井原市芳井町種

別称:田根城

標高410m 比髙20m

主な遺構:横堀・竪堀

アクセス

 井原市役所芳井支所前から小田川を渡ってすぐに左折、県道297号に入って芳井町種に向かう。標高400m前後の高原上に入れば、やがて左手に明治小学校(近年閉校となった)が見える。続いて右手に八幡神社の丘が見えれば、城はその北隣の丘にある。 

         

 城のある芳井町種は標高400m前後の吉備高原上に位置する。小起伏の地形が広がる高原上には、浅い谷間ごとに農地と民家の点在する風景が広がり、小屋の山城南方には郵便局や派出所・(旧)明治小学校があって、ここが種の中心集落にあたる。  

 城の載る丘は比髙20mほどの独立した小丘であり、丘頂の主郭(1)は長辺60m短辺20mほどの歪んだ長方形。主郭西側には主郭に食い込むような形の削平地 a があり、小さな神社が祀られている。

 主郭の西側・南側を巡る横堀は a の部分で途切れるから、主郭の一部と横堀を破壊して a が造成されたもののように見える。ただ横堀部分についていえば、横堀の高さは a の両側で異なるから、連続した横堀ではなかったようだ。従って a の神社敷地部分には何らかの曲輪、虎口部をなす曲輪が存在していたのかもしれない。

 主郭南側では横堀の外側が幅5m前後の帯曲輪(?)となっている。横堀の外壁側を土塁に仕立てたケースはあるが、本城のように整地した例は見たことがあまり無く、後世の耕地化によるものなのかもしれない。

 城の麓に設置された標柱には「備中田根城主、刈谷佐衛門大夫は、後醍醐天皇隠岐に遷し奉らんとするとき忠勤をつとめた。忠功により田根村七百貫の地を賜い小屋に居城を築き城主となる」とある。

 地元に伝わる伝承では、城主刈谷氏は毛利軍に攻められて落城したという。ここで毛利軍が戦っているとしたら、天正2年(1574)毛利から離反した三村元親を毛利軍が討伐した、いわゆる「備中兵乱」の時。東方4kmにある金黒山城(城主は三村一族)も、同年毛利軍によって攻め落とされたと伝えており、刈谷氏はこの戦いで三村方に属して滅ぼされたのかもしれない。

参考文献 

 美星町史編纂委員会『岡山県美星町史』 1976年

 現地説明板