小笹丸城 岡山県井原市美星町黒忠

標高370m 比髙60m 

主な遺構:土塁・竪堀・井戸

アクセス

 美星町星田の美星中学校西側を走る広域農道は別名「星の里街道」。星田からこの道を北西に約3km進むと県道292号が右手から合流する。この交差点に小笹丸城の説明板が設置されている.登り口もここにある、

         

 小笹丸城の主は竹野井(竹井)氏。大永年間(1521−28)には竹野井市朗衛門尉、天正3年(1575年)には竹野井常陸守氏高・竹野井又太朗春高が居城したという(現地説明板による)。

 天正2年、三村元親が毛利氏から離反し織田信長と結んだことから、毛利軍が備中に進攻して備中兵乱と呼ばれる戦いが始まる。三村氏の本拠である備中松山城では、籠城した部将のうち竹井宗左衛門尉らの内応が相次ぎ、翌年5月三村氏は滅亡する。

 その後毛利軍の備中・美作進攻のなかで、竹井宗左衛門尉は現地の情勢や地理に明るい「方角の衆」として活躍することになる(桂岌圓覚書ほか)。この宗左衛門尉も竹野井の一族と思われるが、天正期の小笹丸城主とされる竹野井氏高・春高との関係はわからない。

 小笹丸城のある黒忠の南側、星田には三村氏一族の居城と伝える金黒山城があって、この戦いで毛利軍に攻め落とされたと伝えるし、北西6kmの国吉城も激戦の末落城している。その中で小笹丸城を舞台とした戦いが伝わらないのは、この戦いの中で竹井氏が毛利方に属したことが関係しているのかもしれない。 

 

 丘頂の主郭は一辺30~40mの不等辺四辺形。北辺から東辺にかけて土塁を備え、曲輪の周囲は高さ6~10mの鋭く急峻な切岸となる。

 主郭への登り道は南北両側にある。北側のものは土塁の切れ目に上ってくるもので、左右の塁線をわずかにずらした丁寧な造りの食違い虎口。 南側のものは急峻な切岸を2度折り返して上る道で、あるいは後世の作業道なのかもしれない。

 主郭を囲む腰曲輪はわずかな段差をつくりながら主郭を一周する。主郭東側では切岸下に通路を兼ねた横堀が巡り、横堀外側も整形されて曲輪となる。ここは背後の尾根に繋がる部分で、これに備えてさらに2段の曲輪が鞍部を見下ろす位置に築かれている。

 腰曲輪に上ってくる道としてa、bがある。南斜面から上ってくるbの道は、腰曲輪からの迎撃が可能で、素朴な坂虎口だが意外に防御の堅い虎口。西斜面のcは後世の作業道のように思える。また北斜面の竪堀も堀底道として利用された可能性がある。

 北斜面の竪堀脇の小郭には石組み井戸が完全な姿で残る。

 井戸はやや斜めに穿たれていて薄暗く、底は見えない。恐る恐る覗き込んで巻き尺を垂らしてみると、その深さは10mを越える(『美星町史』には深さ16mとある)。井戸には頑丈な柵が巡らしてはあるのだが、ご用心あれ。井戸曲輪の両側は上方斜面を削り出した土塁が囲み、土塁外壁下には竪堀も刻まれて、厳重な防御を施した曲輪となっている。

主郭。小さな社が鎮座する

主郭北虎口脇の土塁上、投石用に集積したものと思われる川原石が。

主郭東側の横堀

石組みの深井戸。やや斜めに穿ってある

参考文献

 美星町史編纂委員会『岡山県美星町史』 1976年

 現地説明板