金黒山城と三村氏居館 岡山県井原市美星町星田

標高374m 比髙80m 

主な遺構:土塁・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 井原警察署東交差点から美星町方面へ向けて北上する。しばらく進むと県道166号に入る。県道を道なりに直進し、星田池堰堤上の道を過ぎると下谷集落に入る。ここを左折して約1km進むと木野山キャンプ場がある。キャンプ場の北西方向、送電線鉄塔のある山が金黒山城跡だ。星田池に流れ込む谷川沿いの道に入り、北上すれば城山南麓に案内板があり、ここから山道が延びている。

       

金黒山城

 金黒山城は蔵光三村氏の居城と伝える。

 三村氏は元弘の乱(1331年)の功績によって小田郡星田郷(現在の井原市美星町一帯)の地頭職として入部したと伝える。星田には当城のほかにも法雲寺城・三村氏居館など三村氏ゆかりの城館があって、ここ星田は備中三村氏の本拠地であった。

 三村氏はやがて成羽(高梁市成羽町)に進出し、毛利氏と手を結んで備中最大の勢力を有する国人にのし上がる。しかし天正2年(1574)の末、 備中松山城主となっていた三村元親が毛利から離反して織田方についたことから、三村・毛利両軍の戦い、いわゆる「備中兵乱」が始まる。城麓の説明板によれば、本城はこのとき小早川勢の攻撃により落城したという。

 

 城のある美星町吉備高原の南端に近く、この辺りで高原の標高は350m前後。城跡は高原を刻んで流れる星田川とその支流に挟まれた尾根上にある。

 遺構は標高374mのピークを占める主郭とこれを三方から囲む腰曲輪からなる。城の東西両側は谷川を見下ろす急斜面であり、尾根続きとなる北側が高原面に繋がるから、城の防御施設は北側に集中する。

 主郭は背後の堀切面と虎口の開く東辺を土塁で固めて、丁寧な普請の曲輪となっている。一方、三方を囲む腰曲輪は切岸の加工が甘く、尾根端側には堀切も無い。登城路は南麓から付けられていたらしく、南端の曲輪から順次腰曲輪を経由し、主郭東辺土塁の切れ目に開かれた虎口に入る。

 背後の尾根は三重堀切とこれに挟まれた数基の竪堀が東西両斜面に下ろされるなど、厳重な構えを見せる。さらに西斜面側には主郭切岸下にかけて畝状竪堀群が築かれており、背後の構えが本城の見所となっている。

 ただこの竪堀群について、三村氏の本拠備中松山城をはじめ、三村氏一族の城では発達した竪堀群を備えたものが少ないことから、本城の竪堀群は三村氏の滅亡後、毛利勢による改修の可能性がある。

金黒山城(南麓から撮影)

登り口の説明板

 金黒山城の東方1kmの蔵光(案内図参照)には「城の内」と呼ばれる舌状の低い丘があって、ここに三村氏居館跡(下図)がある。居館は東に向いており、居館背後を囲む土塁が南北30mに渡って伸び、その北端には空堀の一部とみられる溝が残る。また南西側の空堀は道路拡幅によって消滅しており、遺構の残存状態は良くない。

 金黒山城は蔵光三村の居城だったと伝えるから、ここが平素の居館だったのかもしれない。

三村氏居館

参考文献

 美星町史編纂委員会『岡山県美星町史』 1976年

 岡山県史編纂委員会『岡山県史』中世Ⅱ 1991年

 『日本城郭大系』13広島・岡山  新人物往来社 1980年