温湯城 島根県邑智郡川本町市井原

標高210m 比高160m

主な遺構 土塁・石垣・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 川本町の中心街から県道291号を南へ進むと八色石方面に向かう県道31号が分岐する。31号をしばらく進むと会下川に沿って西に向かう狭い道が分かれる。川沿いの道をさらに300mほど進むと右手に登り口がある。

      

 温湯城は江の川沿いにある川本の町から南東方向、江の川の支流会下川を見下ろす急峻な山に築かれている。城は標高210mのピークを占める1郭を中心とした曲輪群と、北東に大きく伸びた尾根先端部を占める曲輪からなる。

 2段に分かれた山頂の1郭は東西50m南北20mほどの規模。その西側、会下山城と向かい合う2郭の堀切面には櫓台が造成されている。その下方には三重堀切が刻まれ、櫓台との間は高さ15mの急峻な切岸となる。

 1郭の西側には北西及び南西方向に分岐する尾根がある。3郭(「ばせんば」)はその双方に跨がって築かれた細長い曲輪。曲輪の南北両端は尾根筋を削り残して整形した土塁によって側面に備える。

 北西尾根の先端、矢谷川と会下川に挟まれた所には「蔵屋敷」と呼ばれる曲輪がある。その規模は長辺60m短辺50m程。川を見下ろす小高い丘にあって、1郭の間の高度差が110mに及ぶから、1郭を中心とする山頂部分が詰め城にあたるとすれば、蔵屋敷は日常的生活の場であったのかもしれない。

 蔵屋敷の背後には二重堀切、中腹の「テラヤシキ」への登りにかけてさらに三重堀切が刻まれる。これに加え「テラヤシキ」の周囲には8基の竪堀が築かれており、北西尾根の厳重な防御が注目される。

 

 温湯城は江の川沿いの川本一帯に勢力を有した小笠原氏の本拠城で、南北朝時代にはすでに築かれていたようだ。

 弘治3年(1557)、毛利氏は大内氏最後の拠点となった且山城(下関市)を陥落させて防長両国を征服する。翌永禄元年、毛利元就は3人の息子隆元・吉川元春小早川隆景と共に石見に出兵。小笠原氏攻撃に向かった。

  「元就様・隆元様・隆景様、防州より直に小笠原御出張候、五三日御逗留候て、河本ぬく井・小笠原家城(温湯城)の尾頸かさ取山と申山へ御打上候、隆元様は尾頸御陣取候、元就様・元春様、北之方阿か城(赤城)との間に御陣取候」 (「森脇覚書」)

 

「森脇覚書」は吉川元春の部将森脇飛騨守春方の遺した覚書で、これによると毛利軍は温湯城の「尾頸」つまり温湯城背後の「笠取山」に陣取ったという。位置関係から見れば、会下山城がこの笠取山にあたるようだ。

 会下山城は標高330mのピークから二手に分かれて伸びる尾根にかけて築かれており、尾根上に無数の整形不十分な小郭を連ねた城となっている。その西端は温湯城からわずか50m地点に迫り、ここには大規模な二重堀切が刻まれている。

 戦いに敗れ降伏した小笠原氏は温湯城と川本一帯の領地を明け渡し、江の川の北岸に追われる。その後元就から温湯城を与えられた吉川元春は、森脇と二宮を番衆に命じ、山陰経略の拠点としている(『吉川家文書』『毛利元就卿伝』)。

温湯城(北西側から撮影)

参考文献

 川本町誌編纂委員会『川本町誌』 1977年

 『日本城郭大系』14 鳥取・島根・山口 新日本往来社 1980年

 三卿伝編纂所『毛利元就卿伝』マツノ書店 1997年

 「森脇覚書」 『戦国期中国史料撰』マツノ書店 1987年