勝成山城  広島県廿日市市津田

別名 勝山城 黒滝三角山城

標高684m 比高400m

主な遺構 堀切・竪堀

アクセス

 佐伯町津田の浅原分かれ交差点から小瀬川ダム方面に向かう。すぐに県道293号に合流し、しばらく進むと道路脇に「勝成山憩いの森 入口」の指示板が現れる。ここから上勝成山山頂まで林道が延びている。

        

 毛利元就は大内・陶氏に反旗を飜し、天文22年(1554)5月12日広島湾頭に出兵。陶方の城番が守備していた金山城草津城など広島湾一帯の城を奪い、厳島を占領している。同年6月5日には陶氏の派遣した部隊を明石口で破り(「折敷畑の戦い」)、さらに山里(廿日市市佐伯町から広島市佐伯区湯来町一帯)へ進攻した。

 山里での戦いは翌弘治元年にかけて続き、この年10月1日の厳島合戦直後、陶兵の山里退去によって終わりを告げる。 

 山里で両軍が築いた城として「房顯覚書」には「陶尾張山里黒滝ニ在陣、此方ニハ狼か蔵ヲ要害ニコシラヘ迎城ニセラルゝ」。つまり、毛利方の築いた城としては「狼か蔵」、陶方が拠点としたのは「山里黒滝」(=勝成山城、別名黒滝三角山城)で、ここには陶尾張守(晴賢)が在陣したと記すのだが、これは噂にすぎないのかもしれない。

 厳島合戦後、陶兵が山里から退去すると、勝成山城には毛利の部将が城番に入っているから(萩藩閥閲録巻40・巻92)、山里ではまだ不穏な状況が続いていたようだ。

 

 勝成山城は北麓津田との間で比高400mに及ぶ勝成山の山頂に築かれている。勝成山の北から東側山麓にかけて、両者の戦いの場となった山里の主要部がもれなく視界に入るし、東方には毛利方の中山城・狼倉城などが一望出来る。陶方にとってこの城は申し分の無い位置を占めた要害だったはずだ。

 現在山頂には電波塔が建設されているが、これによる破壊はわずかなものに止まっているようだ。山頂の主郭は南北90m幅10~15m、大比高の険しい山に載る城にしては巨大な曲輪で、主郭北寄りには土壇が載る。

 山頂から北および東に延びる尾根に築かれた曲輪は、要所に堀切・竪堀を備えているが、尾根筋に曲輪を連ねるだけで山腹に曲輪は見られない。素朴な縄張りとなっている。

 

参考文献

 「房顕覚書」『広島県史』古代中世資料編Ⅲ 1978年

 「森脇覚書」『中国史料撰』マツノ書店 1987年

 廿日市市廿日市市史』通史編1 1988年

 秋山伸隆「戦国の合戦と中山城跡」廿日市市友和市民センターでの講演資料 2008年

 山口県文書館『萩藩閥閲録』 

 芸備郷土史刊行会『芸藩通志』1973年