標高430m 比髙80m
主な遺構:土塁・横堀
アクセス
吉備中央町役場賀陽庁舎から県道31号を南西に4km、正金交差点の東方丘陵上に野路山城がある。正金の交差点から山裾の陰地集落を経て東の丘陵へ向かう車道が延びている。
野路山城のある竹荘盆地は旭川の支流宇甘川の上流部に位置する。城の西麓正金付近(案内図参照)が旭川水系と高梁川水系の分水界にあたるのだが、一帯はなだらかな丘陵の中に水田の広がる平地分水界となっている。
竹荘盆地を見下ろす標高588mの矢倉山山頂に矢倉畦城があり、ここから南西に延びた尾根の先端、標高430mのピークに築かれたのがこの野路山城だ。当城の南東200mの所(案内図A)にも遺構があって、「おかやま全県統合型GIS」はこれを野路山城の一部かとしていたが、最近発行された『岡山県中世城館遺跡総合調査報告書』では「陰地城」となっている。
野路山城の遺構は丘陵頂部に設けられた一辺25m四方の土壇からなる。土壇外壁の高さは数十cmから1m程度。普通なら土塁外壁下を巡るはずの空堀が土壇の縁に沿って巡る不思議な姿なのだが、一応土塁・空堀囲みの曲輪と言えなくもない。
ただ、この「土塁」は曲輪面と同じ高さだから、防御の楯となるのは高さ1mにも満たない土壇外壁面だけということになる。さらに土壇の外側にも緩斜面が広がるから、一見してこれが城跡だと判断するのはむずかしい。
A(陰地城)は野路山城より20mほど高い位置にある。同様になだらかな丘頂部を土塁・横堀で囲んだ城だ。下降斜面となる西側を除く三方を横堀が囲む。
城の規模は一辺30mほど。土塁外壁の高さは2m前後、内壁側では高さ1m前後で、曲輪の内部はほぼ平坦に加工されている。東西両辺に各1カ所土塁の切れ目があって、これらが虎口と思われる。
『賀陽町史』は野路山城について「10間四方と7間四方の土塁の形が残り、約1反歩くらいの方形の平坦地をなしている。俗に人桝といわれている」と記している。この「10間四方と7間四方」が、二重の四角形に見える当城について記したものであれば、確認した遺構は記載されたものより少し広い。
また「人桝」との呼び名について、 「人(兵)を収容する桝型の土地」と読めば、野路山城はまさに陣城であり、遺構の面から見ても一時的な軍事拠点として使用されたものと言える。
さらに同書は、野路山城が北東側1.7kmにある矢倉畦城の支城と考えられるとし、備中国川上郡黒忠(現井原市)を本拠とする土豪竹井宗左衛門尉直定が守っていたという伝承を載せる。確かに矢倉畝城からは野路山城とAの双方が視界に入るし、いずれの城も陣城に特徴的な縄張りを見せるから、これらの城はいずれかの戦いに際して築かれたもののようだ。
竹井氏が本拠地の黒忠を離れてこの城に在番したとすれば、この城が築かれた時期として、竹井氏が三村氏から離れて毛利方に属する事になった天正2年の備中兵乱の時が考えられる。
あるいは天正7年か。この年、宇喜多氏が毛利を裏切って織田方に属したことが判明すると毛利・宇喜多両氏の境目で軍事的緊張が高まる。竹庄でも不穏な動きがあったようで、毛利輝元は、竹庄一帯が悉く敵方についたのかと熊谷就真に訊ねている((九月十一日付毛利輝元書状、『萩藩閥閲録』巻127)。
参考文献
岡山県古代吉備文化財センター『岡山県中世城館遺跡総合調査報告書』 2020年
webサイト「おかやま全県統合型GIS」
賀陽町史編纂委員会『賀陽町史』 1972年