河原山城 岡山県津山市市場

別名:河原屋敷

標高265m 比髙5m  

主な遺構: 土塁・横堀・井戸

アクセス

 津山から鳥取方面へ向け国道53号を進むと陸上自衛隊日本原駐屯地がある。その手前、日本原集落の交差点を左折し県道450号に入る。大きなため池を左右に見ながら北上するとやがて広戸小学校、さらに300m北上すると左手に周囲を水田に囲まれた低い丘がある。これが河原山城だ。

        

                  河原山城

 津山盆地の北東側には、標高1255mの那岐山を主峰とする山々が屏風のように連なる。その南麓には低く長く伸びる尾根と、それにはさまれた浅い谷が幾筋も刻まれる。耕地化が進んで尾根は不明瞭になり、水田中に小丘の点在する風景に変わっているのだが、そのわずかな高まりを利用した城館がいくつも築かれている。河原山城・本丸城・国司尾館がそれだ(案内図参照)。

 城は土塁・空堀に囲まれた方形居館で、その規模は約70m四方。周囲を農地に囲まれた居館跡であるが、遺構の残りは極めて良い。

 主郭を囲む土塁の高さは最大3m、北辺の土塁脇には石組みの井戸も残る。北辺から西辺にかけて土塁外壁下には深さ5~6mの横堀が巡る。主郭南西隅には南に伸びる土塁状の突起も見られる。微高地に築かれた城だが、急峻な切岸・空堀・土塁で厳重に防御された姿から館城と呼んでよさそうだ。

 主郭南辺には土塁の切れ目( a )があってここに虎口があったと言いたいのだが、ここに登ってくる通路が確認出来ない。現在の入口は主郭北東隅に開かれているのだが、これが本来の虎口であったのだろうか。『美作国の山城』は、館跡の北東隅に見られる土塁の切れ目が「横矢掛かりを伴う枡形虎口」とするのだが、今ひとつ納得できないものがある。

 一般に、山麓緩斜面や尾根先端の小高い場所に営まれた土居屋敷は背後を空堀で遮断し、その内側に土塁を盛る。入口は平地に面した側に開くものが多いと思う。下図1・2はその例で、屋敷の背後に低い丘を背負い、背後から側面にかけて土塁や空堀で囲まれる。後世の破壊・改変を受けている部分はあるが、入口は麓側にある。

 屋敷を囲む土塁・空堀は背後からの攻撃に備えて(あるいはステータスとして?)築かれたはずだから、河原山城の北東隅、土塁の切れ目にある入口は耕地化等に伴う後世の破壊の結果と見る方が自然ではなかろうか。

 

 河原山城について『東作誌』は、広戸村市場の欄に、

「家老屋敷二ヶ所にあり、上段は竹藪、その他は今皆畑なり」

とあり、2カ所あるという家老屋敷の一つが河原山城で、もう一つが国司尾館らしい。

 現地案内板では遺跡名を「大屋敷跡」として、「河原山大屋敷跡・国司尾大屋敷跡は、中世の頃広戸の地において、勢威を振っていた国人広戸氏の居館跡である」と記す(下写真)。

河原山城全景

案内板

 参考文献

 寺坂五夫 『美作古城史』1977 作陽新報社

   正木輝雄 『新訂作陽誌』1975 作陽新報社

 「美作国の山城」編纂委員会『美作国の山城』 2010年