飯ノ山城と温湯城合戦  島根県邑智郡川本町谷戸

別称 仙岩寺城 青岩城

標高294m 比高250m

主な遺構 土塁・石垣・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 川本市街からまず江の川の対岸にある仙岩寺を目指す。寺までは整備された石段の道だが、山門前からはガレた急崖の登りとなる。道はほとんど消えているのだが、やがて立ち木につけた赤リボンが見えてくる。これが山道の目印らしく、これを頼りに登る。急崖を登り切ったら尾根伝いに西へ。車は仙岩寺登り口の路肩に駐車可能。

 飯ノ山城は江の川に落ち込む断崖絶壁の上に築かれている。中腹にある仙岩寺(青岩庵)の名によって仙岩寺城・青岩城とも呼ばれる。 

 永禄元年(1558)毛利軍は小笠原氏の本拠温湯城を攻撃し、降伏させているが、この戦いに登場するのがこの湯ノ山城だ。

 吉川元春の部将森脇春方が遺した「森脇覚書」によると、本拠地温湯城とその支城赤城に籠もる小笠原氏を攻撃するため、毛利軍は温湯城背後の笠取山(会下山城)などに陣取る一方、小笠原氏を支援する尼子の援軍は飯ノ山城に陣取った(案内図参照)。

 飯ノ山城から眺めれば川本市街の奥に温湯城と赤城が見えるし、笠取山に展開する毛利軍の様子まで手に取るように見えたはずだ。この城は尼子軍にとって申し分の無い位置を占めていたことになる。

      

 飯ノ山城の中腹にある仙岩寺は小笠原氏ゆかりの寺であり、この時兵火にかかり焼失したというから、戦いは江の川北岸でも行われたようだ。結局、尼子軍は攻撃を受けている小笠原氏救援を果たせないまま、大田方面に引き退いている。

 仙岩寺。右手下方に川本市街が広がる

〇印が飯ノ山城。左手前は川本市街

    

    飯ノ山東方の尾根を遮断する堀切。大きく南斜面に伸びて竪堀となる

 仙岩寺から急崖を登り切って尾根伝いに飯ノ山城に向かう途中、尾根を遮断する堀切が2カ所。大きく下方斜面に伸ばされたものだ。何れも尾根伝いの攻撃に備えたものといえる。西よりの堀切には竪堀が併設され、その脇には高さ1mほどの切岸に守られた曲輪がみえる。

 二つの堀切を越え、一旦浅い谷に下って登り返せば城の載る仙岩寺山だ。山頂部はドーム状を呈する山である。山頂を占める1郭の北側は二重堀切で遮断。堀切の両端は竪堀となって下方斜面に大きく伸びる。

 何といってもこの城一番の見所は畝状竪堀群で、1郭北側では二重堀切上方に築かれており、放射状を呈する竪堀群となる。ここから東斜面側にかけて17基の竪堀が並ぶ。

 山頂部では南北に延びる稜線を削って1・2郭以下、数段の曲輪を造成しているのだが、削平の程度はわずかであり、曲輪の周縁部は未加工の緩斜面に替わる。

 1郭と2郭の間には土塁 a がみられるが、これは削り残した部分が土塁状になったということであって、ここでも土塁外壁側に加工の痕跡はなく、未加工の斜面のまま放置されている。

 結局、急傾斜の切岸となっているのは主に畝状竪堀群の上方だけで、曲輪の周囲で切岸のみられるのは東斜面に並ぶ畝状竪堀群に面した部分だけだ。

 従ってこの城は継続的な居住を想定した城ではなく、敵襲の予想される東方面の防御を何よりも優先した戦いの城と思われる。

山頂の1郭。わずかに削平するだけで、未加工の斜面が残る

1郭北側の堀切。右手上方に1郭がある

温湯城についてはこちら。

 

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参考文献

「森脇覚書」(『戦国期中国史料撰』マツノ書店 1987年)

『日本歴史地名大系33 島根県の地名』 平凡社  1995年