別名:天蔵寺城
標高390m 比髙90m
主な遺構:土塁・石垣・堀切・畝状竪堀群
アクセス
三和町の敷名郵便局から三次方面へ向けて美波羅川沿いの国道376号を1kmほど北上すると道の左手に敷名八幡神社がある。その背後の山が茶臼城だ。神社西側に登り口がある。
城は江の川の支流美波羅川の刻んだ谷を見下ろす丘陵端にある。中央部の大堀切りを挟んで遺構は大きく2つに分かれる。
大堀切の北側は主郭(1)と石積みの残る腰曲輪(3・4)からなる。1郭はわずかな段差で2段に分かれ、背後の堀切に面した土塁脇には大堀切からの道が入ってくる。
大堀切南側では、2郭が堀切に面した北端部分に土塁を設けて曲輪らしい景観を見せているほかは、わずかな段差で削平状態が悪く不整形な曲輪が階段状に並ぶ。南端部では尾根筋の緩斜面が放置されたままだ。
主郭の西斜面は高さ6 mの切岸となる。切岸下には地元で「七谷七畝」と呼ばれる畝状竪堀群がある。竪堀群とは言っても、その形態は人頭大程度の小石や礫を積み重ねて築いた縦土塁の形をなすものだ。その高さは1m前後、長さ10~15m程度。
竪堀は7基だけではなく、南曲輪群の西下方にかけて合計13基が並ぶ。北寄りの8基が土塁型、南よりは主に竪堀型でやや乱雑に築かれたものだ。この竪堀群が1郭切岸下から2郭下方に広がる緩斜面を潰している。
茶臼城は旧敷名村に残る城跡のうち一番しっかりした遺構を持つ城なのだが、『芸藩通志』は城名を挙げるだけで、何故か城主名・由来は伝えていない。本城の東わずか1kmの地点には毛利元就の異母弟にあたる相合元綱が城主であったと伝わる奴原山城があって、これの関連が注目される。
同書の敷名村絵図には茶臼城の麓に「天蔵寺址」が記されており、別名の天蔵寺山城はこの寺名によるものらしい。
参考文献