松山城  島根県江津市松川町市村

別名 川上(かわのぼり)城 川登城 河上城 

標高145m、比高130m

主な遺構 土塁・石垣・堀切・畝状竪堀群・井戸? 

アクセス

 江津市街から江の川沿いの国道261号を東へ。松川町市村で国道から離れ、松山城背後の山に向かう道路に入る。曲がりくねった道を上っていくと、道路脇に「城山入口」の指示板が見える。ここから尾根伝いに城跡まで山道が伸びている

   

 

 城は丘頂を占める1郭を中心とした曲輪群と、南西側100mほどの地点に残された「桜丸」と呼ぶ出城からなる。

 丘頂を占める1郭の周囲が高さ10m前後の切岸になっているのをはじめ、曲輪群の外周は急角度の切岸に仕立ててある。その一方、1郭から2郭にかけて削平は甘く未加工の緩斜面を残す。

 2郭から北に延びる尾根が城の背後にあたるのだが、2郭切岸下に明瞭な堀切は確認出来ないし、1郭東側尾根でも同様だ。両郭の切岸下には曲輪とは判断しにくい造成地が広がり、土取り跡のような急崖も見られる。

 明治5年の太政官布告によって編纂された「皇国地誌」の市村村誌の欄には、松山城跡について「現今畠となり旧跡半失す」とある。1・2郭の背後に伸びる尾根に明瞭な堀切が確認出来ないのは耕地開発の結果なのかもしれない。

 3郭は背後を石垣、側面に土塁を盛るなどしっかりした普請の曲輪となっている。土塁外壁下の北斜面には尾根に沿って伸びる縦堀が刻まれ、さらに2郭下方にかけてさらに8基の竪堀が並べ築かれるなど、最も厳重に防御を固めた所だ。

 

 桜丸は主郭につながる尾根を三重堀切と畝状竪堀群で厳重に固めている。この畝状竪堀群は尾根筋を挟んで向かい合うように各4基の竪堀が築かれたものだ。従って出城というには独立性が高いから、いわゆる「一城別郭」つまり、谷や堀切などによって隔てられた主要な曲輪が並び立ち、一方が落とされても他方の郭に拠って戦うことができる構えの城といえる。

 当城にみられる畝状竪堀群は4カ所。そのうち、堀切に隣接するタイプはこの桜丸だけなのだが、1・2郭の背後に堀切があったとすれば、1郭東・3郭北の竪堀群も堀切隣接型だったのかもしれない。

 

 城のある市村はもとの川上(かわのぼり、川登・河上とも)で、その名のように江の川を上下する舟運の船着場であり、また、江の川両岸を結ぶ渡し場に成立した渡頭集落でもあった(『江津市誌』)。

 松山城南北朝期に中原氏によって築城されたと伝える。その後佐々木氏が入るが、天文の頃福屋氏の攻撃を受けて滅び、福屋隆兼の二男隆任が松山城主となったとされる。

 永禄元年(1558)毛利軍が小笠原氏の本拠温湯城を攻撃した際、小笠原氏を支援する尼子軍が江の川渡河点確保のため、当時毛利方に属していた福屋氏の籠もる松山城を攻撃する。しかし後攻めの毛利軍が到来したため、温泉津へ引き退いている。

 小笠原氏を降伏させたのち、毛利元就は小笠原氏所領のうち江の川以南の土地を没収。替地として福屋領のうち邇摩郡において伊田・羽住を与え、福屋氏には同郡内に替地をあてがうことに。このことに不満を持った福屋氏が毛利に叛旗を飜し尼子方についたことから、毛利による福屋討伐の戦いが永禄4年に始まる。

 松山城攻めの経路について、吉川元春の部将二宮俊実の遺した「二宮佐渡覚書」では次のように記している。

 「(永禄5年)二月二日、大江(現在の江津市大代町大家か)至陣替候。隆景様も御同前にて候、殿様(元春)・信直(熊谷)、井下之渡ヲ被作セ、十合(江津市桜江町谷住郷)ニ御陣候て、同松山尾頸どうとこと申山に御陣被成候」

 

 毛利軍は松山城の北方尾根続きにある「どうとこ」(堂床、案内図参照)に布陣し、2月6日、まず上津井川対岸の支城櫃城、続いて松山城を攻め落とし、福屋氏の本拠乙明城に向かっている。

1郭。未加工の緩斜面が残る

3郭切岸下に刻まれた竪堀。右手には畝状竪堀群がある


参考文献

「皇国地誌」(江津市誌編纂委員会『江津市誌』別巻 1982年)

廣田八穂『西石見の豪族と山城』1985年

「二宮佐渡覚書」(『戦国期中国史料撰』マツノ書店 1987年)

江津市誌編纂委員会『江津市誌』1982年

角川日本地名大辞典32 島根県』 角川書店 1979年

『日本城郭大系14 鳥取・島根・山口』 新人物往来社 1980年