櫃城  島根県江津市松川町上長良

別名 龍城

標高140m 比高130m

主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群  

アクセス

 江津市街から江の川沿いの国道261号を東へ。槇原トンネルを抜けたところから植林地の中を尾根を目指す。尾根にたどりついたら尾根伝いに登っていけばばいい。

   

櫃城縄張図

 城は南に江の川西に上津井川を見下ろす急崖の上に築かれている。上津井川対岸には松山城があって当城はその出城とされるが、出城というには随分規模の大きい城となっている。

 山頂の主郭(1)は長辺35m短辺25mの長方形。これを中心に四方に派生する尾根に曲輪が配置される。

 主郭を囲む曲輪のうち最も丁寧に防御施設を整えているのは、背後につながる尾根を見下ろす4郭だ。尾根筋には四重堀切、ここから北斜面にかけて3基の竪堀を連ねる。また北尾根の3郭は西尾根の分岐点にあり、北尾根を遮断する堀切と、これに並べ築いた畝状竪堀群で防御を固める。

 1・3郭のような主要な曲輪はしっかり整地されているのだが、切岸の造成は不十分で曲輪の周囲に未加工の緩斜面が放置されたところが見られる。1郭の南尾根や西尾根など、尾根に沿って小郭が並ぶ姿は陣城を思わせる。図中には示していないが、小郭は不明瞭なものを含めればもっと多い。従って、全体的にみれば急遽造成した城のように思える、

 

 永禄4年(1561)福屋隆兼が毛利に叛旗を飜して尼子方についたことから、毛利による福屋討伐の戦いが始まる。翌5年2月毛利軍は松山城の背後「堂床」に布陣。2月6日にまず櫃城、次いで松山城を攻め落として福屋氏の本拠乙明城に向かっている。

 松山城に籠城していたのは福屋隆兼の二男福屋隆任とその家臣神村下野守、さらに尼子の援軍として牛尾次郎左衛門も加わっていた(『萩藩閥閲録』巻15)。

 この福屋隆任が松山城及び櫃城城主と伝わるから、当城は伝承のとおり松山城の出城とみてよさそうだ。 一方、「皇国地誌」では城主を高井又次郎、そののち福屋氏の家臣重富照房とし、重富は元亀元松山城の戦いで死去したと記すが、詳細は不明。

1郭

3郭下方の堀切は麓に向けて大きく伸び、脇には畝状竪堀群が並ぶ

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参考文献

「皇国地誌」 (江津市誌編纂委員会『江津市誌』別巻 1982年)

廣田八穂『西石見の豪族と山城』1985年

「二宮佐渡覚書」(『戦国期中国史料撰』マツノ書店 1987年)

『日本城郭大系14 鳥取・島根・山口』 新人物往来社 1980年