標高110m 比高100m
主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群
アクセス
三隅市街地の中を通る県道48号を北上して国道9号と出会う所、右手に「史跡 鐘ノ尾砦跡」の案内板がある。ここから鐘ヶ尾城を越えて尾根伝いに進むが、荒れた山道となる。
今城は前回の記事で取り上げた鐘ヶ尾城とともに高城の出城とされる。『日本城郭大系』にも載らない城なのだが、予想に反して一辺100mほどの規模を持つしっかりした城跡が残っていた。
丘頂の主郭(1)は東西40m南北45mほどの規模。北・西の二方向を腰曲輪が囲む。主郭西方には二重堀切と竪堀群を刻み、堀切面には高さ4mの土塁を盛って西側尾根続きに備える。
注目されるのは主郭下の腰曲輪(2)がこの堀切に直面していないことだ。堀切との間に三重の竪堀を挟むだけでなく、曲輪側面には削り残しの土塁を構えている。背後の丘陵から山腹斜面へ回り込む攻撃に備えて、腰曲輪の側面を固めるだけでなく上方の主郭からの側面攻撃を意図したもののようで興味深い。
鐘ヶ尾城からの尾根伝いの道は2郭西側の畝状竪堀群下方に繋がるから、この竪堀群はこの尾根筋に備えたものようだ。ここから尾根伝いに100m余り進んだところに、部分的に成形しただけの曲輪と堀切・竪堀で防御された小砦Bがある。
前回の記事「鐘ヶ尾城」で触れたように、鐘ヶ尾城・今城間には2つの小砦があり、尾根筋には小削平地が点在するから、両城は一つの城として機能していたものと思われる。
城の規模からいえば、鐘ヶ尾城は今城から伸びる尾根の先端に構えた出城に過ぎないように見える。毛利軍が三隅高城を攻略したという元亀元年(1570)の戦いで、古和城主古和長門守が守備した「鐘ヶ尾城」は、今城までの範囲を指しているのかもしれない。
『三篠町誌』は搦手口を固める「三本松・今城・鐘ノ尾・小丸尾」に砦の存在を記しているし、『石見の城館跡』では今城の位置を案内図に示した位置よりも東方に示しているから、今回確認した今城の東方尾根上にも城塞跡が存在するのかもしれない。
参考文献
廣田八穂『西石見の豪族と山城』 1985年
廣田八穂『中世益田氏の遺跡』 1979年
『石見の城館跡』 1997年