別名 永安城
標高470m 比高100m
主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群
アクセス
矢懸城は浜田市役所弥栄支所から東に見える丘陵上にある。支所前の橋を渡り、城山の南麓に回り込んで登る。


城は長安本郷の家並みを見下ろす丘陵端のピークに築かれている。背後に連なる丘陵を深さ7mの二重堀切で遮断し、2郭堀切面には土塁を盛る。
丘頂の1郭から西及び南に伸びる尾根にはそれぞれ3段の腰曲輪を連ねる。1郭と西尾根4郭の間はうっすらと堀切が刻まれ土橋状の通路で結ばれるが、1郭に祀られた神社に由来するものかもしれない。
4郭下方には堀切1基と4基からなる竪堀群が刻まれる。この堀切は南北両斜面に伸ばされて竪堀となるが、尾根筋一帯は不明瞭となっている。
矢懸城主永安氏は益田氏の一族で、仁治3年(1243)三隅兼信の次男兼祐が永安の地を譲られて、永安氏を称したことに始まる。
天文23年(1554)5月、毛利元就は大内義長・陶晴賢と断交(いわゆる「防芸引分」)。翌弘治元年に入ると元就は大内・陶方に属して反毛利の立場をとる益田氏・永安氏らを牽制するため、吉川元春に命じて石見に進攻させる。
吉川軍はこの年2月11日に矢懸城の北に位置する高木城を、ついで3月23日には矢懸城を攻め落としている(『萩藩閥閲録』巻31)。その間の状況について、吉川元春の部将森脇春方は次のように記している。
元春様、石州長安(永安)之城、敵ニ成申由候て、彼表御出陣候、長安之城明退、益田殿を賴候て被罷居候、(中略) 益田殿此節より元春様を御賴、御懇望候て被仰談候、左候て長安に腹を切せ、頸を新庄へ御持せ、山縣左京所にてにて御直検候(森脇覚書)
落城時の矢懸城主ははっきりせず、永安大和守あるいは永安式部少輔兼政とされる(現地説明板)。森脇覚書に記すように、矢懸城落城ののち、永安氏は益田氏のもとに身を寄せていたが、益田氏が毛利氏に服属するとき、益田氏に切腹させられてしまう。



参考文献
「森脇覚書」『戦国期中国史料撰』マツノ書店 1987年
廣田八穂『西石見の豪族と山城』1985年
『日本城郭大系』第14巻 鳥取・島根・山口 新人物往来社 1980年
島根県教育委員会 島根県中近世城館跡分布調査報告書第1集『石見の城館跡』1997年