「近郷古事漫録」に載る城を歩く②竹城  広島県庄原市掛田町

標高340m 比高110m

主な遺構 土塁。堀切・横堀

アクセス

 庄原市街から国道432号を北へ。西城川を渡って500mほど、再び西城川を越えて左岸側に渡り、上流側に少し戻ると古寺古墳群の案内板がある。こここから登り、古墳群からは尾根伝いに進めばいい。

   

 竹城に関して「近郷古事漫筆」は次のように記す。

一 此山(鈴神山)東に連る川南の峰を加賀良山と云、此山の尾崎東に絶て川岸に臨む処を掛田、櫓の段竹城あり、其の上の山手を陣ヶ峰と云、山内家砦の古跡也、高村雲井城と相対す、

一 陣ヶ峰の麓浄雲山正中院と云古禅刹あり、正中年中山内家建立の由申伝、

 山内氏は領域各所に地名を名乗る庶子家を配置しており、その一つ懸田氏は掛田の地を拠点としたと考えられてきた。懸田氏が竹城の主であったとしたら、「西備名区」や『芸藩通志』といった江戸期の地誌に竹城の記載がないのは不思議なことだ。『全国遺跡地図』や『日本城郭大系』にも載らない城だから、ごく限られた地元地域でその存在が伝承されてきた城のようだ。

  

 竹城の遺構は、すでに確認されていた標高340mの丘頂部Aと北東尾根のBからなるが、この他に赤色立体図で北東尾根から分岐した北尾根に陣跡のような像を見つけて現地を踏査し、Cの遺構を確認した。

 Aについて、2郭は土塁囲みの曲輪で、急角度に整形された切岸に囲まれる。虎口は両脇に折が入って横矢が掛かり、虎口部を見下ろす1郭北辺にも折を入れた土塁を巡らすから、軍事面重視の縄張りといえる。

2郭切岸。急角度に整形されている

 2郭の東側、電波塔脇にある溝は東尾根を遮断する堀切の一部らしい。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』に載る図ではここに二重堀切が描かれており、反射板建設によって一部を残して破壊されたものと思われる。

 Bについて、尾根筋に多数の小郭を連ねた姿は陣城に多くみられるものだ。先端の二重堀切下方にも階段状の造成地があるが、この堀切までを城の範囲と判断した。Aとの間のなだらかな尾根には堀切などの防御施設がないことから、BはAの一部とみられる。

 Cは尾根筋に広がる緩斜面を直線的な切岸・土塁・堀切で囲い込んでいるから、陣跡とみられる。

 尾根の先端側に刻まれた堀切は土塁外壁下に沿って伸びるから、横堀と呼ぶほうがよさそうだ。注目されるのはこの堀切・横堀の位置だ。通常、堀切・竪堀などで厳重に遮断するのは城の背後なのだが、当城の場合B・C双方で麓側重視の縄張りとなっている。

Cの北端、横堀と土塁

「近郷古事漫筆」の記述では「陣ヶ峰」は櫓の段竹城の山手にあって、麓には正中院(案内図参照)があるとするから、Aが陣ヶ峰、B・Cが櫓の段竹城ということになる。いずれにしても当城は尾根筋の緩斜面をそのまま囲い込んだ曲輪や、階段状に連ねた小郭があること、さらに陣ヶ峰の呼び名から考えれば、継続的に維持された城ではなく、陣城とか砦といった類いの城のように思われる。

 山内氏の本拠城甲山城についてはこちら。

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参考文献

「近郷古事漫筆」 庄原市史編纂委員会『庄原市史』1980年

文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』34広島県  1982年

「日本城郭大系』13広島・岡山 新人物往来社1980年