新宮山城 広島県三次市志幸町

標高190m 比髙10m  

主な遺構:土塁

アクセス

 三次市街から三良坂方面に向けて国道184号を東へ。道の右手前方に志幸八幡神社のある丘が見えれば、新宮山城はその一つ手前の小丘にある。志幸八幡神社の丘の手前で右折し、新宮山城南側にある志幸町集会所を目指せばいい。

  

   

 城は北に向けて突き出した低い尾根の先端に築かれている。ただ、南側尾根続きの部分は耕地化されており、現状では孤立した小丘となる。主郭は少し歪んだ長方形で長辺60m短辺35mの規模。両脇に配置された小郭はいずれも不明瞭なものだ。主郭南側尾根続き部分には人の高さほどの土塁が盛ってあり、ここから両側面に伸びて城の背後を囲む形となるから、丘上に営まれた居館とみてよさそうだ。

 『芸藩通志』は新宮山城について、「新宮左衛門所居、天文の頃毛利家に滅せらる、高杉村祝家の分知なりし」と記す。城主新宮氏は当城の西方2kmにある高杉城主祝(ほうり)氏の一族であったわけだから、毛利氏に滅ぼされたというのは天文22年の戦いを指すようだ。

 天文22年(1553)4月、旗返城に拠る江田氏が大内方から尼子方に寝返ったことから、大内方・尼子方両者の戦いが備北各地で始まった。同月12日、旗返城北方の江田寄国固屋を大内方の毛利軍が攻撃。7月23日には江田氏に従っていた高杉城主祝氏を毛利軍が包囲し攻め落としている。

 このとき新宮山城も毛利軍の激しい攻撃を受けたようだ。『芸藩通志』の志幸村絵図には、新宮城の周囲に「耳塚」『首塚」「鼻塚」の書き込みがみえるから、そ時の戦死者を葬ったものと思われる。

芸藩通志』巻110志幸村絵図(部分)

□「新宮山古城跡」〇印は「耳塚」『首塚」「鼻塚」

 

南側からみた新宮城 Googleストリートビューより

参考文献

芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年