標高388m 比髙170m
別名 三若要害
主な遺構:堀切・畝状竪堀群
アクセス
三次市街から国道375号を南下し、三若町に入ると世羅方面に向かう県道45号の分岐がある。これを過ぎると国道は峠越えの上りとなる。峠を登り切ったあたりから山に入る。道は無いが林床は開けている。
城の北、谷を挟んで向かい合う位置に江田氏の本拠旗返城がある。天文22(1553)年、江田氏が大内方から尼子方に寝返ったことから、旗返城は太内・毛利軍の攻撃を受けることに。8月に始まった戦いで、10月19日には援軍の尼子兵が城を脱出し、陥落している。
『芸藩通志』の城墟欄には「陣床山 三若村にあり、毛利氏の陣する所なりと云」とあり、同書の三若村絵図にも「古戦場陣床山」がみえる。当城は旗返城の戦いで毛利軍の築いた付城(つけじろ)である。
※付城 攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城。向城。(大辞林)
当城の東方にある大番城(案内図参照)は尾根を遮断する堀切は確認できるものの、明瞭な曲輪を持たない臨時的な城だ。当城と同じく旗返城の戦いに際して築かれたものと思われる。
陣床山城は丘頂の主郭を中心に腰曲輪が二段構えに取りまく。この主郭と腰曲輪は規模が大きくしっかりと普請されるが、一方、主郭から北方向に向けて延びる3筋の尾根には不明瞭な小郭が連なり、簡略な普請に替わる。尾根上の小郭はもっと多いが、上図では全てを記入していない。
城には背後に尾根続きの山が無いのだが、主郭南側に二重堀切、これに隣接して東斜面側に4基の畝状竪堀群が築かれており、臨時的な築城にしては防御面を重視したていねいな造りとなっている。なお、この畝状竪堀群は既存の曲輪を破壊しながら築かれているようだ。
参考文献
『新裁軍記』マツノ書店 1993年