八幡山城  広島県三次市志和地町

標高240m 比髙60m

主な遺構:土塁・石垣・井戸・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 JR芸備線志和地駅の南方丘陵上に八幡山城がある。板木川西岸の道を南下し、鉄道の線路を越えるとやがて東岸に渡る橋が見える。橋の正面の山が八幡山城だ。橋を渡ったところに登り口がある。

      

 

 八幡山城が史上に登場するのは永正13年(1516)のことだ。この年1月、八幡山城の西方2kmにある「志和知長野城」を三吉・宍戸氏の連合軍が攻撃したので、毛利氏は同城に援軍を派遣。2月に入ると逆に毛利軍が「志和智城」を攻撃している(『萩藩閥閲録』巻41)。この志和智城が八幡山城と考えられている。

 次いで天文22年(1553)尼子晴久は大内方から離反した江田氏を援けるため備後に攻め入る。この年6月山内に着陣すると八幡山城をはじめ各所に兵を動かしている(二宮佐渡覚書)。

 城主として色々な名前が伝えられるが、いずれも三吉氏の一族郎党と見られる人物だ。まず『芸藩通志』は「上里森光所居、一に中村石見ともあり」と記す。軍記『陰徳太平記』でも三吉の郎党中村石見が守備していたとする。

 一方三次町国郡志」に載る三吉氏系図では、13代致高の弟三郎右衞門が八幡山城番であったとする。系図によると三郎右衞門は天文13年(1544)備北布野に進攻した尼子軍との戦いで討ち死にしている。

 いずれにしても八幡山城は三吉領の西端に位置する重要な城だったことから、三吉氏の一族・郎党が城番を務めていたものと思われる。

 城の西麓には土居の地名、板木川対岸には市場の地名が残る。この市場について、江戸期の「上志和地村国郡志」には「八幡山に上里森光公御在城之節は、此所町家にてすでに御制札候由」とあり、町家もあって栄えていたようだ。

 

 城は志和地の集落を見下ろす丘陵端に築かれている。主郭の背後には土塁を盛り、北に連なる尾根は4重の堀切で厳重に遮断。堀切の両端は谷筋に延びて竪堀となっており、その一部は下方で合流する特異な形のものだ。

 1郭の中央には神社の境内となっている土壇があって、2郭から石段が取り付けられている。ここから麓の平地に向けて3段の腰曲輪が階段状に並ぶ。いずれも急角度の切岸に守られて城跡らしい風景を見せる。

 いずれの郭も西から北斜面側に土塁を備え、北斜面から西斜面にかけて竪堀群が築かれているから、北から西方面を意識した築城のようだ。竪堀のうち2郭下方のものは3基の竪堀が整然と並ぶ畝状竪堀群である。

 

八幡山城。 北側から撮影

背後の堀切から主郭を見上げる。

2郭。左手切岸の上に主郭がある

3郭の石垣。奥に土塁も見える

 

参考文献

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 三次市史編纂委員会『三次市史』 2004年

 「二宮佐渡覚書」(『中国史料撰』  マツノ書店 1987年)

 『陰徳太平記』  東洋書院  1981年