髙屋城 岡山県井原市高屋町

標高260m 比髙190m 

主な遺構:土塁・堀切・井戸・畝状竪堀群

アクセス

 井原市髙屋町から髙屋川沿いの県道103号を2kmほど北上すれば石谷集落がある。集落の背後、絶壁の上に髙屋城がある。私は西斜面の急崖をよじ登ったのだが、これには相当の覚悟が必要だ。案内図中、北側から髙屋城に向かう破線の徒歩道が見える。高原上に回り込んで尾根伝いの道をたどる方がいい。

      

 

 髙屋城主と伝えられる藤井皓玄は、井原市芳井町に勢力を有した武士で、同町の正霊山城を本拠とし、髙屋城には嫡子の新介を置いたという(『神辺城と藤井皓玄』)。

 藤井氏は天文7年(1538)太内氏に亡ぼされた神辺城主山名氏の旧臣であり、永禄12年(1569)8月3日、毛利軍の主力が北九州に出兵していた留守を突き、神辺城の守備兵を追って城を奪取する。

 神辺城は毛利氏にとって備後支配の拠点となっていた城であって、数日後には毛利軍によって奪回される。城を追われた藤井皓玄は本拠地の芳井や髙屋に戻ることも出来ず、楢崎氏の追撃を受けて討ち取られ、その首は元就の陣所まで送られたという(『萩藩閥閲録』巻53)。

 反乱はこれで収束したわけではなかったようだ。神辺城奪取事件から3ヶ月ほど後の同年10月、藤井軍が山野(福山市山野町)と吉井の間に一城を取り付けたらしいとして、毛利軍が「髙屋要害」まで兵を繰り出したのだが、反乱軍を追い散らすことが出来ず、援軍を派遣してほしいと要請している(乃美文書)。従ってこの10月時点で髙屋城は毛利方の拠点となっていたらしく、現在見られる髙屋城の遺構は毛利方の改修を受けているものと思われる。

 

 城が築かれているのは吉備高原の南端部で、標高は250m前後。開析が進んで平坦面は少ないが、高原上には点々と耕地が開かれ、尾根づたいの道に沿って人家があった。城はその高原の縁、深く切れ込んだ谷間を見下ろす急崖上にある。

 地元の人に案内してもらえれば高原上から城に向かうことが出来るかもしれないが、残念ながら当方は単独行。地形図を見ると城の北側から尾根伝いに進む山道があるのだが、そこに至る道筋がよくわからない。えいやっとばかり西麓から藪の中を直登。両手両足を使ってよじ登ること30分余。急角度に整形された城壁が頭上に見えてきた。

 頂部の1・2郭はよく整形されていずれも方形をなす。北西斜面には15基の畝状空堀群。そしてこの城唯一の弱点となる背後の尾根には五重の堀切を並べている。この堀切は岩盤を掘削したもので、数百年を経った今でもV字状に鋭く切れ込み、削り残しの土塁が屏風のようにそそり立っている(下写真)。何といっても本城最大の見所だ。

主郭背後の連続堀切。堀切は岩盤をえぐって築かれており、削り残しの土塁部分が屏風のようにそそり立つ。

 登城路は畝状竪堀群の上端から3郭の脇を経て2郭へ入ってくる。図中 a が虎口であり、虎口下にある土塁囲みの3郭は武者溜りにあたる。1・2郭の両側面に築かれた帯曲輪は、南側では三つの小郭に分かれ、北側では切岸の不明瞭な平場に過ぎないが、いずれも攻め上る敵を迎え撃つ足場となったはずだ。

 城山の中腹は極めて急傾斜だが、山頂に近づくとやや傾斜がゆるむ。ここを固める畝状竪堀群は狭い谷間に面した北側斜面だけに築かれ、視界の広がる南側・西側を放置していること、さらに背後の強固な連続堀切の存在から、高原側を防御正面と考えていたようだ。

畝状竪堀群の上端部。土まんじゅうを並べたように見える

参考文献

 立石定夫『神辺城と藤井皓玄』 内外出版 1990年

 『井原市史』Ⅰ 井原市史編纂委員会 2005年