竜王山城   広島県世羅郡世羅町長田

標高360m、比髙60m

主な遺構:土塁・堀切・畝状竪堀群・井戸?

アクセス

 世羅町小国から吉舎方面へ向け県道28号を北上。吉舎町徳市の交差点を左折し馬洗川沿いの県道56号を西へ向かう。三次市域から世羅町域に入るとすぐに横坂バス停がある。ここから道の正面右手に見える山が城跡だ。登り口は南麓の民家脇。道路脇に「竜王山城跡」の標柱がある。

       

   

 江の川の支流馬洗川の最上流に位置する津田盆地から、川沿いに下って狭隘な谷間にさしかかったあたり、谷筋の視界を遮るように馬洗川に向けて突出した丘陵の先端に竜王山城が築かれている。

 城は南に伸びる尾根に4つの曲輪を並べ、ここでいったん尾根をばっさりと遮断するが、その先の尾根先端部にも整形不十分な4郭が配置される。背後の丘陵につながる主郭(1)北側では、切岸下に9基からなる畝状竪堀群が放射状に築かれるが、その下方鞍部に堀切は刻まれていない。堀切に替わる防御施設として築かれたということだ。

 一方主郭から東に派生する尾根では、基部を二重堀切で遮断するが、その先に伸びる平坦な尾根上に加工の痕跡は無く、放置されたままとなっている。

 この二重堀切は南北両斜面に大きく延ばされて竪堀となり、城の東斜面はこの堀切にに並べ築かれた畝状竪堀群が覆う。主郭西斜面側でも同様に竪堀群が刻まれているが、遺構はやや不明瞭で、竪堀の数は図に示したものよりさらに多いのかもしれない。

 発達した竪堀を備える一方、土塁は3郭の周囲に見られるだけでその使用は少ない。これら土塁は上段の曲輪から下段の曲輪の側面に伸ばしたもので、諸郭を結ぶ通路を兼ねていたようだ。

 3郭東下方の小郭が虎口曲輪らしく、通路は畝状竪堀群の上端から大堀切脇で折り返して3郭下の小郭へ、さらに3郭へと導かれる。

 

 応仁・文明の乱の文明7年(1475年)、毛利豊元は東軍の拠った「横坂要害」を落とし、「伊多岐・重永・山中・横坂要害」を「末代知行」として拝領した(毛利家文書)。当城一帯は横坂と呼ばれる地であり、この城が横坂要害と考えられている。

 毛利軍が備中・美作方面に向かう際、本拠地の吉田から伊多岐(三次市三和町)を経由し、当城のある山中現在の世羅町北部一帯に着陣するのが恒例であったから、現在確認される遺構は毛利氏によって改修されたものと思われる。

竜王山城全景

 

参考文献

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第3集 1995年