アクセス
白竜湖畔を走る国道432号を東に進み、和木の集落に入ると国道486号との交差点がある。これを右折し国道486号に入る。大草川の先200mほどで左折し、見正寺方面に進む。再び大草川が前方に見えれば、船山城は右手の丘にある。藤城は国道をさらに数百メートル進み、右折する。
建暦3年(1213)小早川景平から沼田新荘地頭職を譲られた季平に始まる系統は新荘小早川氏と呼ばれる。沼田新荘は沼田川の支流椋梨川に沿って広がる椋梨・小田・和木・上山・大草などの村々で、新荘小早川の本家である椋梨氏は新庄の各村々に一族を配置したから、下図のような在地名を名乗る庶子家が生まれた。
今回紹介する藤城・船山城は、新荘小早川氏の分家である和木氏・大草氏の居城と伝わる城だ。「小早川氏一族知行分注文」(小早川家文書)によれば、新庄小早川氏のうち椋梨氏の所領が最大で400貫文、次いで小田氏375貫文、大草氏300貫文、和木氏75貫文で、大草氏は本家の和木氏より大きいのが注目される。
標高290m 比髙20m
主な遺構:土塁・堀切
椋梨氏から別れた和木氏の居城とされる。
城は徳良川と大草川の合流点の南方、比高15mほどの小丘陵にある。かつて耕地として利用され、南側では土砂が削り取られて破壊が進んでいるが、西に続く丘陵を堀切で遮断し、城の背後から両側面にかけて土塁で囲んだ単郭の城だ。このような姿から、土居屋敷のような居住機能を持つ城と思われる。
標高290m 比髙20m
主な遺構:土塁・堀切
和木氏の分家、大草氏の居城とされる。草井川と平坂川の合流点に向けて低く延びる尾根の先端に築かれている。城の南東に続く尾根は道路建設などによって削られ、現状は独立した丘となっている。
1郭は長辺80m短辺24mの長方形。三方土塁囲みで、南東端の土塁は幅を広げて櫓台状になる。西側には登城路が付けられている。1郭北側の小郭2の先、尾根先端部は掘り切ってあるようだ。
藤城と同じく居住機能を持つ城と思われる。川に挟まれた要害の地形に営まれているから、館城と言えそうだ。
参考文献