国吉城  岡山県高梁市川上町七地 

別名 手の要害

標高415m 比髙260m  

主な遺構:堀切・土塁

アクセス

 井原から国道313号を北上。旧川上町役場のあった地頭から北西の方角に国吉城がある。地頭から西谷川沿いの県道299号を進み、高原上にある川上町七地から城を目指す。

      

     

 

 旧川上町役場のあった地頭の町並みから北西の方角を見上げれば、切り立った山の中腹にぽつんと一軒の民家が見え、その背後に平坦な山頂を持つ山が見える。これが国吉城だ。

 城は高原の縁に突き出した尾根に築かれていて、その規模は南北180m、幅20mほど。地頭から見上げる城山は比髙250mに及ぶ切り立った急崖の上にあるのだが、北側は同高度の高原に繋がる。

 主郭はピークを占める1郭で、南北45mほどの規模。ここから北に2段、南に4段の曲輪が尾根上に連なる。南端の3郭は東斜面に向けて帯状に伸びており、これが馬場跡とされる。

 城への唯一の通路となる北尾根への備えは、一重の堀切とそれを見下ろす位置に土塁がわずかに残る。本城に残る土塁・空堀はこれが唯一のものだ。

なお、この土塁・堀切は城跡への道路建設によって破壊されている。

 

 中世の文書には「手の要害」の名でも載る。何とも変わった名だが、城のある川上町の領家川一帯が室町時代京都相国寺領「手庄」という荘園であったことによる。

 当城は備中松山城に拠った三村氏の一族が拠った城で、城主として三村政親の名が伝わる。天正2年(1574)の末、 松山城主三村元親が毛利方から離反して織田方についたことから毛利氏が備中に進攻。いわゆる「備中兵乱」が始まる。

 毛利軍が国吉城に押し寄せたのはこの年12月。降伏を申し出る国吉城に対して、毛利方は「行てだて初めと申し、悉く討果たすべく」(天正2年12月31日付小早川隆景書状、小早川家文書)と降伏を許さなかったから、結果、毛利方が討ち取った頸の数は305にものぼる(毛利家文書)。虐殺のあげく、城は翌3年の元旦に陥落する。 

 同年6月には三村氏の本拠松山城が陥落して三村氏は滅亡し、三村領内の主要城郭には毛利の一族・重臣が配置された。国吉城には口羽通良の次男春良に在番を命じ、一千貫の領地を与えている(萩藩閥閲録巻32)。

 

 国吉城は三方を急崖に囲まれた城だから、毛利軍の攻撃に備えて背後の堀切を多重堀切にし竪堀を並べ築くなど、尾根筋への防御を強化することはできただろうに。凄惨な戦いの場となった城にしては信じられないほど素朴な縄張りの城となっている。

 毛利の部将が守備する城となった後も、素朴な縄張りのまま改修されなかったのは、その後の宇喜多勢との戦いの中で、当城が後方に位置する城だったからだろうか。

国吉城(〇印)。手前は地頭の街並み

参考文献

川上町教育委員会町史編纂委員会 『川上町史』 1994年

「広報たかはし」地名をあるく 19地頭、38七地 (高梁市HP)