標高400m、比髙8m
主な遺構 堀切・土塁
アクセス
府中市役所上下支所前から県道403号を西へ1kmほど、道の右側に水田に囲まれ、藪に覆われた低い丘が見える。これが国留城だ。
上下といえば天領の町、古い白壁の町並みで知られるが、この町並みの西方1kmほど、水田に囲まれた小さな丘に国留城がある。ここから西方に見上げる山に時鳥城・千丸松城の両城がある(案内図参照)。
城は周りを水田に囲まれた小丘にある。低い丘だけに、切岸はしっかりと急角度に造成されている。曲輪はわずかな段差で数区画に分かれるが、全体としてその規模は南北60m、東西は最大幅で50m。背後を固める土塁は主郭からみて高さ4m、外壁面では8mに達する堂々たる構えだ。
南西側300mには馬場跡があるといい、城内には井戸・土塀を残すとされるが、井戸・土塀は確認出来なかった。耕地に囲まれた小丘の城だけに、後世の土地利用による影響を受けているものと思われる。
「西備名区」は国留村の古城址として次の3城をあげる。
国留山和智城(城主:和智和泉守長元、同元氏)、
千丸松城(城主:和智長元、同元氏ほか)
国留城(城主:渡辺信濃守家)、
国留山和智城および千丸松城主とされる和智氏は、延文年中(1356-60)和智長元が知和村(現三次市)から国留に移ったといい、その子元氏が時鳥城を築き始めたところ、ホトトギスが鳴いて不吉だとして千丸松城を築いてこれに移ったという。
この和智氏は南天山城(三次市吉舎町)を本拠とした和智氏の一族らしく、国留八幡神社の由緒によると、天文16年に毛利の宿将和智豊後守元通が備南平定の拠点として当地に築城、本殿を再建したという(『広島県神社誌』)。
一方、国留城主とされる渡辺氏は備後南部に本拠地をもつ武士であって、同書は応仁の乱に際して山名宗全に属し、軍功によって国留村を給わったと記すのだが、和智氏の拠る千丸松城から見下ろされる位置にわざわざ城を築くのか、腑に落ちないものがある。
この3城のうち「国留山和智城」に該当する城は確認されておらず、こちらの方が現在目の前にある国留城だと考えれば、国留城は和智氏の平素の居館、西方に見上げる千丸松城は詰城にあたるといえそうなのだが。さて、
参考文献
得能正通編『西備名区』(『備後叢書』 東洋書院 1990年)