時鳥城  府中市上下町深江・国留、三次市甲奴町本鄕

標高500m、比髙100m

主な遺構: 堀切・土塁・竪堀 

アクセス

 府中市役所上下支所前から県道403号を西へ1kmほど進むと、右折して甲奴方面に向かう道が分かれ、甲奴町に向かう峠越えの道は現在トンネルで抜けている。トンネルの入口脇からトンネルの真上に登り、古い峠越えの道をすすむ。峠からは折り返して東へ、尾根伝いに登っていけば時鳥城の堀切が見えてくる。

        

 時鳥ほととぎす城は上下町国留と三次市甲奴町の境界にある。現在甲奴町に抜ける道はトンネルになっているが、かつて峠越えの道となっていて、城はその峠道を眼下にとらえる位置を占める。

 江戸末期、芸藩通志編纂のため、村々から提出させた世羅郡深江村の「国郡志下しらべ書出帳」によれば、城主和智豊後守がここに城普請を始めたところ、ホトトギスが鳴いたので、これを不吉として国留村の千丸松へ城を築いたという。

 和智氏は南天山城(三次市吉舎町)を本拠とした和智氏の一族らしく、国留八幡神社の由緒に、天文16年に毛利の宿将和智豊後守元通が備南平定の拠点として当地に築城、本殿を再建したとある(広島県神社誌)。

 東西に延びる稜線上の曲輪は延長120mに及ぶ長大な曲輪で、東に向けてだらだらと下っていく斜面となっていて、いくつかの平坦面に区切られているわけではない。その上曲輪内は至る所に不規則な小起伏を残しており、上記伝承の通り、普請途上で放棄されたような姿を見せる。

 現在、尾根伝いに付けられた山道が城内を貫いており、東端の入口は二重堀切を土橋で渡り、堀切に面して土塁が盛ってあることから、これは本来の虎口らしい。

 一方、城の西端は主尾根の二重堀切と北に派生する尾根の堀切、さらにこれらの堀切の間にも竪堀を刻んで厳重に遮断しているから、これが城の背後にあたるようだ。この二重堀切を横切って城内に入る道は後世の山仕事の道のようにみえる。

東端の虎口(城内側から撮影)

西端の入口(堀切越しに撮影)

参考文献

 得能正通編『西備名区』(『備後叢書』 東洋書院  1990年)

 広島県神社誌編纂委員会『広島県神社誌』 1994年

 『角川日本地名大辞典』34広島県 角川書店 1987年