別名:奥備城
標高370m 比髙120m
主な遺構:土塁・堀切・竪堀
アクセス
吉舎の中心街から東へ、県道426号を安田に向かう。峠を越え安田の集落に入ると左手に最近廃校となった安田小学校がある。奥尾城はその北西側、上下川に面した丘陵上にある。城山南側の谷に登り口がある。
奧尾城のある吉舎町安田は北隣の知和と共に上下川沿いに位置する。東麓を流れる上下川の西岸は三谷郡(のちの双三郡)、東岸が甲奴郡に属していたところから、前者は三谷安田、後者は甲奴安田あるいは上安田と呼んで区別していた。
奥尾城主について江戸期の地誌『芸藩通志』は「天文年中、安田右衞門元勝所居」と記す。安田氏は吉舎の南天山城を本拠とする和智氏の一族である。
一方、上下川対岸の旧甲奴郡の安田・知和は田総に本拠を置く田総氏の勢力下にあって、上下川が両勢力の境目となっていた。奧尾城はこの境目に備えた和智方の要害であり、田総氏一族の拠る城山城(安田山城)と川を挟んで向かい合っていた。
城山の比髙は120mほどだが、中腹は大変急峻な地形となっていて、城からは東麓に広がる安田の盆地から上下川対岸の城山城まで視界が広がる。丘頂の主郭は長辺40m短辺20mほど。西側鞍部の堀切群を見下ろす位置に人の背丈ほどの土塁を備え、その一部は幅を広げて櫓台となる。
主郭から南東尾根へ向けて曲輪が3段構えに造成される。最下段の腰曲輪は側面に削り残しの土塁と竪堀を備えて山腹からの攻撃に備え、曲輪下方の尾根にも二重堀切を入れて厳重に防御している。
本城で最も念入りに防御施設を整えたのは背後の丘陵につながる西側鞍部である。明瞭な堀切は4基確認できるが、不明瞭なものを加えれば、合計7基からなる堀切群となっていたようだ。
参考文献
吉舎町史編纂委員会『和智氏と吉舎町の山城』1984年
吉舎町史編纂委員会『吉舎町史』 1988年