国広山城 広島県三次市和知町

標高330m 比高140m

主な遺構:土塁・堀切・横堀

アクセス

 城は松江自動車道の三次東ICの東方丘陵上にある。東麓から国広山山頂に設置してある電波塔へ向かう車道がある。ただし車での進入は不可。

    

 

 国広山城は三次市和知町の北端、標高330mの丘陵頂上部に築かれている。城跡は松枯れによる倒木とブッシュがひどくて動き回れず、撤退すること二度。三度目にやっと上図の状態までこぎ着けたのだが、まだ未調査部分を残したままだ。あれからずいぶん時間が経つから歩きやすくなっているかもしれない。

 城の西側尾根続きは堀切で遮断し、堀切面には土塁も築かれている。そして北斜面側にはしっかりした普請の横堀が巡る。その中ほどには櫓台らしき  a  もあって、北側を防御正面とした城と思われる。

 このように北辺一帯はずいぶん立派だが、これを除けば城は小さな段差で連なる不明瞭な削平地の集合体に過ぎない。なにか普請途上のような雰囲気を漂わせる城だ。

 

 大永7年(1527)出雲より尼子経久が大軍を率いて備後に出兵、北上してきた太内・毛利軍と戦った。戦いは7月から11月まで断続的に続くが、最大の戦いとなったのが8月9日「和智郷細沢山」での戦いであった。経久はその後も「和知ノ八千タン」(ハチヶ壇城)に在陣を続け、11月末にはハチヶ壇城の麓三吉郷でも戦っている。

芸藩通志』によれば、国広山城は始め国広石見、のち和智実方から七代が居城したとあるが、上記のような遺構の状況から継続的に使用された城ではなく、戦いに際して築かれた陣城と思われる。

 当城のある三次市和知町(中世の和智郷)は三次盆地の東縁にあって、低丘陵と谷水田が入り組んだ地形が広がる。その丘という丘に城があると言えるほど、多くの城がひしめき合う場所となっている。

 下図、四角で囲んで示した菅田付近がこの戦いの行われた所。両軍が陣所として利用した城を『三次市史』の記述に沿って赤・青に色分けして示した。このうちハチが壇城・南山城・茶臼山城は山頂部に広がる緩斜面を未加工のまま土塁で囲い込んだ城となっている。

     

参考文献

 『日本城郭大系』13 広島・岡山 新人物往来社 1980年

 『芸藩通志』  芸備郷土史刊行会 1973年 

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第4巻

 三次市史編纂委員会『三次市史』1  2004年