小見山城  岡山県井原市高屋町吉谷 

標高180m 比髙130m    

主な遺構: 堀切・土塁

アクセス

 井原市街から福山方面へ向け国道313号を進む。髙屋の街並みに入ると「経ヶ丸グリーンパーク」の指示板が現れる。指示板に従って右折し坂道を上っていけば、やがて道路脇に観光農園の看板が見える。ここから観光農園の脇を尾根伝いに南下すればいい。

         

    

 当城のあるじは小見山氏と伝えられる。「古戦場備中府志」は、元弘の乱(1331年)での小見山元忠の軍功を記すが、小宮山氏の記述はこれだけで途切れ、続けて天正年中の城主が「毛利の領主三原豊後守藤原廣吉」であったことを記す。「三原豊後守」なる人物の詳細は不明だが、戦国末期には毛利の部将が在番した可能性がある。

 南麓に広がる髙屋の町並みは、髙屋川が狭い谷間から開けた土地に飛び出した所にある。髙屋といえば「中国地方の子守唄」発祥の地で、古い町並みが残る旧山陽道の道筋はいま「子守唄の里ロード」の愛称で呼ばれている。毛利氏が当城に番衆を置いたとすれば、この地が毛利氏の備中進出の一拠点とされたということだろう。

 

 中世の山城を訪問するのに、下っていけば城に着くことはめったに無い。その数少ない例がこの小見山城だ。城の背後は吉備高原の南端にあたり、井原市民の行楽地となっている経ヶ丸山がある。

 牧場や果樹園の広がる城の背後から尾根伝いに進んで行くと四重の堀切が現れる。低い丘に築かれた城だが、髙屋川の刻んだ急峻な谷に囲まれているから、唯一の弱点となる背後を厳重に防御したということだ。堀切群のうち、中ほどの2基は堀切の間に中仕切りの土塁を設けたような姿であり、西斜面に下ろされて合流し1本の竪堀となる。

 背後を三重以上の連続堀切で遮断した城は、備後には多数見られるが、備中南部ではごくわずかであり、当城の近辺でいえば、髙屋城(髙屋町)や金黒山城(美星町)など、数例に止まる。従って髙屋城と同様、毛利勢による改修なのかもしれない。

 本城は1郭から4郭までの主郭部と南尾根上の出城からなるが、主郭部だけでも延長160mに及ぶ井原市域最大級の城だ。曲輪の切岸は急峻に整えてあり、くっきりとした姿の城だが、背後の連続堀切を除けば、4郭下方や出城の背後に堀切は確認出来ず、竪堀も存在しない。また土塁も主郭の堀切面以外に認められないから、防御を固めて身構えた髙屋城のような緊迫感は感じ取れない城となっている。

 主郭(図中1)は長辺40m短辺24mほどの曲輪で、小さな段差で2区画に分かれる。その北端  a は土取りなどによる窪地かもしれないが、主郭北端から堀底に下る道が当時の城道だとすると、a は虎口脇に開口した小郭といえるから、いわゆる武者溜りなのかもしれない。

 2郭下方の腰曲輪には後世の炭焼き窯跡があり、東斜面には山仕事の作業道が付けられている。人里に近い山だけに様々に土地利用され、破壊された所もある。

小見山城(背後の果樹園から撮影)

1郭背後の堀切

背後の連続堀切を写しているが、やはり写真では判りにくい

参考文献

 「古戦場備中府志」 (『吉備群書集成』 歴史図書出版社 1970年)

 『井原市史』Ⅰ 井原市史編纂委員会 2005年